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田邉(辺)太一 子孫 田邉康雄 幕末外交の記事一覧

田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-8)

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<発案は大隈重信>
大隈重信は長崎でフルベッキの薫陶をうけ、実際に新政府の要人が西洋事情を見聞することの重要性を理解した。私は具体的な計画立案を依頼され大隈に提出した。大隈はこれを三条実美太政大臣に上申しようとした。ところが大久保がこれを横取りし、大隈を外して薩摩に近い右大臣岩倉を担ぎだし、遣米欧使節団を編成した。藩閥間の抗争であるが私には関係ない。

<留守番>
維新戦争が終結してからまだ日が浅い。政府の要人、大久保、大隈、大木、伊藤、寺島、山縣、黒田、西郷、川村、山田の中から、大久保と伊藤の二人が二年近くも外遊すると国内で再び戦争が起こる危険がある。この押さえを大久保は、戊辰戦争の盟友西郷兄弟に託した。隆盛は陸軍大将第一号、そして従道は海軍大将第一号であり、この二人で大久保のために留守を守った。

<幕府外交の大成果>
幕府時代の外交は、決して弱腰ではない。よく勉強してこい。これが偽らざる気持ちだった。間宮林蔵が島であることを発見した樺太と移民が多く出て行ったハワイは、ロシアとアメリカにやられたが、しかし国後/択捉を含む北海道、西南諸島を含む沖縄、對馬、小笠原諸島を守った。日本本土が欧米の殖民地にされることを完全に防止した。アジア唯一の快挙である。

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岩倉遣米欧使節団に関して田邉太一はつぶやく。
<薩長の意気込み>
徳川幕府時代の外交は何をやっていたのか。不平等条約を結ぶとは、なんという弱腰だったのか。だから自分達でそれを正してやる。これが岩倉遣米欧使節団の意気込みだった。事実幕府外交の生き字引、私の出番はなかった。私達随行書記官の役目は"台所の切り盛り"に過ぎなかった。私はそのように感じ、命ぜられた事務以外には手をださなかった。

<パリ万博使節団の通信>
私は1867(慶應3)年のパリ博覧会徳川昭武使節団の組頭だった。その時、持参した運営資金がなくなり、逆為替を組んで日本から送金してもらった。当時はパリから上海まで電信が通じていた。上海から江戸までは船を利用した。これで逆為替が成立したのだ。そういう実務経験を持っていた私が、実務未経験の薩長政府から頼まれればいやとは言えず事務方を引受けた。

<岩倉遣米欧使節団の通信>
使節団が1872(明治5)年にニューヨークから打電した電報は、大西洋経由で欧州、インド、上海を経由して5時間で長崎に着いた。そこから江戸までは馬の便で3日かかった。帰国した1873(明治6)年には、長崎~東京間が開通した。だから使節団と東京とのテレコミニュケーションには不自由しなかった。裏方の書記官がこれを担当した。このために書記官を引受けた。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-6)

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函館戦争に関して田邉太一はつぶやく。
<私の関与>
函館戦争では榎本武揚が總裁、大鳥圭介が陸軍総司令官、そして荒井郁之助が海軍総司令官だった。私は横浜に残って軍資金調達をしていた。榎本武揚は父石庵の私塾生だった。また長崎海軍伝習所で一緒だった。大鳥圭介は幕府陸軍で兄田邉孫次郎と交友があった。荒井郁之助は義兄である。こんな近い関係の者が集まって対薩長函館戦争をやったのだ。

<五稜郭の戦い>
榎本等の狙いは北海道に幕臣独立国家を作ることだった。私の幕府時代の「国益優先」という信条には背くが、戊辰戦争における薩長の、とくに薩摩の卑劣なやり方と旧幕臣に対する不当な処遇に憤慨していた私には"時の勢い"だった。憎い薩摩ではあるが、薩摩の黒田が榎本、大鳥、荒井を許したことは意外。意気に感じた三人は明治政府に幕府時代の知恵を伝承した。

<薩長に弓引いた三人のその後>
勝海舟の伯爵には及ばないが、榎本は子爵、大鳥も男爵と華族に列せられた。荒井は中央気象台長となった。函館戦争が薩長ではなく「低気圧に負けた」との思いから気象学に入ったもの。私も外務省で使ってもらい、勅撰貴族院議員にしてもらった。新政府は旧幕府のテクノクラートを上手に利用した。これは江戸城無血開場の賜物だろう。徹底抗戦をしないでよかった。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-5)

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戊辰戦争に関して田邉太一はつぶやく
<維新ではない。武力革命だ>

薩長政府は明治"維新"と名づけているが、実際は明治"武力革命"だった。地方に住む下級武士が中央に住む上級武士に挑んだ革命だった。国民の大多数を占める農民、職人、それに商人は参加しなかった。即ち国民の5%以下を占めるに過ぎない武士の間の武力闘争だった。その結果、中央と地方の政権交代が起こった。徳川幕府が薩長政府に置き換えられたに過ぎない。

<江戸城無血開城>
江戸城明け渡しの時は、私は目付だった。将軍の前で発言できるなど、厄介の身から大変な出世である。勘定奉行小栗忠順(上野介)の側につき、勝海舟の無血開城派と対峙し、薩長に対して徹底抗戦を主張した。それまでに取った国益優先の行動と矛盾しているが、パリ万博出品の際、薩摩の独立旗を掲げるなど汚いやり方に憤慨した結果だ。薩摩だけは許せない。

<小栗上野介と近藤勇>
私は親しい榎本、大鳥、荒井の三人と組んで小栗側に立ち、薩長に弓引いた。敗れた三人は幕府艦隊を率いて北海道函館でなおも弓引いた。しかし小栗上野介は、帰農して恭順した。これを薩長は捉えて斬首した。京都で薩長を殺戮した新撰組の近藤勇を捉えて斬首したが、国家を思う公憤の小栗と武士に出世することを夢見た私欲の近藤を同列に見るなど薩長は許せない。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-4)


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―― 太一は、父石庵譲りで漢学の大家ですが、国学は得意でなかったのでしょう。古文法の使い方に一部意味不明な箇所があります。例示すると「これを世に問ひしことありしか」で、已然形でとまっています。私は浅学の身にしてあまり自信はありませんが、高校時代に習った古文法によると、正しくは終止形「これを世に問ひしことありき」、「こそ」をつけて強調して「これを世に問ひしことこそありしか」、あるいは何か体言をつけて「・・・ありしかど」でなければならないと思います。このままですと意味が私には判然としません。また「遂に自らはからす一史を著して」は意味不明です。「自らはからすも・・・」ならば分からない気もしません。「一方、終止形に「ら変」の「り」を多用しているのは癖でしょうか。

―― これを書いている私田邉康雄は、太一の養子田邉主計の甥です。主計は太一の甥(私にとっては祖父)田邉朔郎の次男です。主計には子がいなかったので私を含む甥姪6名、そしてその子14名、孫15名が太一の正統な子孫です。この他に太一の娘、田邉龍子が嫁にいった三宅雪嶺の子孫がいます。こちらの方がDNA的には太一に近いです。なお龍子は最初は田邉花圃、後に三宅花圃として明治の文壇に名を残しました。太一は東京青山墓地の田邉家の墓に埋葬されています。三宅家と田辺家の墓地はとなり合わせに建っています。

―― 話変わって1947年(昭和22)年、小学校五年の時に担任の先生から命ぜられました。祖父田邉朔郎のことをクラスで紹介せよと。そこで朔郎が残した書斎に親の目を盗んで侵入し、文献を漁りました。その中に真下吾一著「琵琶湖疏水物語」があり、岩倉遣米欧使節団の一等書記官筆頭だった田邉太一を田邉朔郎が横浜で出迎えに行ったことが記述されていました。以来64年間、田邉太一と岩倉遣米欧使節団は、私の気になる存在となりました。

―― 1970(昭和45)年頃から本業の化学エンジニアの仕事の傍ら、少しずつ調査してきました。以下は私が心で聞いた太一のつぶやきです。ひとコマひとコマずつが独立していますから、どこからお読みいただいても結構です。独立している分だけ、コマ間に重複があることはお許しください。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-3)

幕末外国史に関する田邉太一のつぶやきを前ブログからつづきます。

(6)先年知友のすゝめにまかせ予の憶記するまゝを筆し一章一篇成に隨て讀賣新聞に報してこれを世に問ひしことありしか今又これを輯録し更に刪補する所あり以てこの書をなすにいたれり但事予の耳目の見聞する所に局して其全豹を描くに及はす

友人が田兄やってくれと強く勧めるので、老いの身に鞭打って思い出しながら少しずつ書いた。そして新聞に連載記事を書いた。今回は、この連載をまとめて一冊の本にした。その際、さらに書き足した。ただし書いたことはすべて自分が見聞きした範囲の事象に限定されているので、これが幕末外交の全部であるということにならない。私見をお許し願いたい。

(7)又往々臆見を以て時勢を揣摩しこれか説をなすものあり然れとも誇張に渉らす掩飾を事とせす直筆諿むところなきは自から信する所なり幸に幕末資料の一に供るを得は庶幾は宿志の萬一を償ふに足らんか

世間には自分の独断でもって過去の出来事の意味を断定し、それを正しいと主張するものがある。しかし私は事実の誇張はしていない。飾り立てることもしていない。このことは神仏に誓う。だからこの書を幕末外交事情だけでなく、幕末の幕府事情に係る資料として提供できたことは、これまで悶々としてきた胸の中が少しは晴れる思いである。幕末史として見てほしい。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-2)

幕末外交に関する田邉太一のつぶやきを、前ブログからつづけます。

(2)中間譴を蒙りて屏居せし事ありといへとも幾もなく故に復して以て其終りに到れり
私は二度も役目を解かれた。自分のことより国家のことを考えた結果だ。最初は横浜閉鎖を言いに池田使節団の組頭としてパリに随行したとき。二度目は徳川昭武パリ万博使節に随行したとき。閉門蟄居を命ぜられたが、形の上だけで済んだ。そして江戸城無血開場の最終決定会議を徳川慶喜の前で小栗上野介等徹底抗戦派とともに勝海舟の無血開城派と対峙した。
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(3)されは予の謭劣を以てするも幕府外交の事實に於てはやゝ通曉する所あり
外国奉行は1858(安政5)年以來1868(明治1)年までの10年間に、定員3~4名とは言え、60人が入れ替わり立ち代わり就任している。最長在任奉行は3年間でしかない。要職は家格の高い幕臣の世襲制だから致し方ない。私はこの10年間継続して外国奉行所に在籍した。その6年間は組頭という実務の長だった。だから幕府外交の生き字引である。

(4)世に幕末の事を記するの書たゝに十百のみならす然れとも紪繆相望外交の事に於て殊に其甚だしきを見る
薩長が歴史を歪曲した。薩長政府を批判する記事を書いたものは逮捕されるなど言論統制がきびしかった。よって戊辰戦争のことは、薩長は善、徳川は悪という視点で整理される始末である。とくに外交事情に関しては歪曲と捏造が甚だしい。弱腰外交をやった徳川幕府の負の遺産を薩長が後始末したということになっている。勝てば官軍というが、薩長はとくに著しい。

(5)遂に自らはからす一史を著して信を後世に傳へんとの志ありしも老懶これを果し得す
いたたまれず重い腰を上げ、とくに具体的計画をした訳でもないが、幕末外交史を書いて後世の人々の判断にまかせようとの志を立てたが、寄る年波には勝てず、悶々としてきた。外国奉行所時代の同僚で失意の福地源一郎とともに吉原を豪遊したのも、そのはけ口を求めたものだった。福沢諭吉と成島柳北の先生に対して、福地とともに御前様として花柳界を風靡した。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。前回はさる7月(2001年)に投稿しました。今回は、3ケ月を経た10月になりました。1600字詰の用紙で毎回2~3ページを予定していたのですが、今回は11ページになり、その分だけ遅くなりました。因みに前回は3ページでした。

今回の内容を以下に紹介します。

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前回予告したように、まず幕末外交談の原文の一部を紹介します。出典は、1998(明治31) 年に発行された幕末外交談の初版本です。祖父田邉朔郎が田邉太一から貰いました。そして筆者が相続しました。巷ではこの本の現存が確認されていないので、幻の「幕末外交談の初版本」だそうです。

―― 手始めに「まえがき」部分を紹介します。ここには、以下のような著作の経緯が記載されています。原文を尊重して縦書きとし、かつ、使用漢字も旧字体をそのまま紹介しました。改行の位置も原文のままです。漢学者田邉石庵を父に持ち、父親が教授をする幕府昌平坂学問所で秀才を謳われた人が書いた文章ですから、漢文を思わせます。しかしさほど読解困難な文章ではありませんから、これを現代文に翻訳することは差し控えます。第一、翻訳してしまっては、迫力がなくなります。

自序
予の謁を幕府に釋しは實に其外国事務衙門に在
り中間譴を蒙りて屏居せし事ありといへとも幾
もなく故に復して以て其終りに到れりされは予
の謭劣を以てするも幕府外交の事實に於てはや
ゝ通曉する所あり世に幕末の事を記するの書た
ゝに十百のみならす然れとも紪繆相望外交の事
に於て殊に其甚だしきを見る遂に自らはからす
一史を著して信を後世に傳へんとの志ありしも
老懶これを果し得す先年知友のすゝめにまかせ
予の憶記するまゝを筆し一章一篇成に隨て讀賣
新聞に報してこれを世に問ひしことありしか今
又これを輯録し更に刪補する所あり以てこの書
をなすにいたれり但事予の耳目の見聞する所に
局して其全豹を描くに及はす又往々臆見を以て
時勢を揣摩しこれか説をなすものあり然れとも
誇張に渉らす掩飾を事とせす直筆諿むところな
きは自から信する所なり幸に幕末資料の一に供
るを得は庶幾は宿志の萬一を償ふに足らんか
            田邉太一識す


最初にこの自序の部分に沿って太一の気持ちを吐露すると以下のようになります。数字(1)~(7)は、「自序」の枠上に打った数字に対応しています。

(1)予の謁を幕府に釋しは實に其外国事務衙門に在り
私は幕臣儒学者の次男に生まれた。家は200石の幕臣であったが、兄の厄介の身であった。徳川幕府において役職は世襲であり、これにつかないと俸禄はなかった。しかし昌平坂学問所から甲府徽典館教授になり、そして長崎海軍伝習所で力をつけたので1859(嘉永6)年に外国奉行所の書物方出役を命ぜられ、1861(文久1)年に28歳で最初俸禄30俵の身分取立て沙汰をうけた。

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