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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-4)


前ブログからつづきます。

―― 太一は、父石庵譲りで漢学の大家ですが、国学は得意でなかったのでしょう。古文法の使い方に一部意味不明な箇所があります。例示すると「これを世に問ひしことありしか」で、已然形でとまっています。私は浅学の身にしてあまり自信はありませんが、高校時代に習った古文法によると、正しくは終止形「これを世に問ひしことありき」、「こそ」をつけて強調して「これを世に問ひしことこそありしか」、あるいは何か体言をつけて「・・・ありしかど」でなければならないと思います。このままですと意味が私には判然としません。また「遂に自らはからす一史を著して」は意味不明です。「自らはからすも・・・」ならば分からない気もしません。「一方、終止形に「ら変」の「り」を多用しているのは癖でしょうか。

―― これを書いている私田邉康雄は、太一の養子田邉主計の甥です。主計は太一の甥(私にとっては祖父)田邉朔郎の次男です。主計には子がいなかったので私を含む甥姪6名、そしてその子14名、孫15名が太一の正統な子孫です。この他に太一の娘、田邉龍子が嫁にいった三宅雪嶺の子孫がいます。こちらの方がDNA的には太一に近いです。なお龍子は最初は田邉花圃、後に三宅花圃として明治の文壇に名を残しました。太一は東京青山墓地の田邉家の墓に埋葬されています。三宅家と田辺家の墓地はとなり合わせに建っています。

―― 話変わって1947年(昭和22)年、小学校五年の時に担任の先生から命ぜられました。祖父田邉朔郎のことをクラスで紹介せよと。そこで朔郎が残した書斎に親の目を盗んで侵入し、文献を漁りました。その中に真下吾一著「琵琶湖疏水物語」があり、岩倉遣米欧使節団の一等書記官筆頭だった田邉太一を田邉朔郎が横浜で出迎えに行ったことが記述されていました。以来64年間、田邉太一と岩倉遣米欧使節団は、私の気になる存在となりました。

―― 1970(昭和45)年頃から本業の化学エンジニアの仕事の傍ら、少しずつ調査してきました。以下は私が心で聞いた太一のつぶやきです。ひとコマひとコマずつが独立していますから、どこからお読みいただいても結構です。独立している分だけ、コマ間に重複があることはお許しください。

次のブログにつづきます。

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