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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-2) ― 子孫が語る。

田邉太一をよく知る徳川幕府の外交官田邉太一の子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

前ブログからつづきます。この文章自体が田邉太一のつぶやきです。行間を読んでこの「つぶやき」の真意を紹介しましょう。書き出しの先頭に付いている数字は、本文の枠の上に付いている数字に同じです。この数字によって引用箇所を明確にしました。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に関する事、余耳目がの及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、
幕府外交の生き字引である私が見聞きしたことはおよそ以上のようなものである。誇張や捏造はせず、ありのままを紹介した。これですっきりした。終わりに当たって言わしてもらおう。幕府外交は、外交と呼べるものではなかった。海の向こうの外国人よりも京都におられる天皇の御意向を尊重し、鎖国攘夷を図って、それが出来なかった悲しい歴史であった。

(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず
1853(嘉永6)年ペリーが初回来航した際、老中筆頭阿部正弘は"開国"の必要性を感じていたようだが、他の幕閣には阿部の意見を支えるような見識のある人物がいなかった。それどころか、"鎖国"継続を主張するものが多かった。阿部は敢えて開国を推進するような勇気がなかった。だから姑息に流れ、因習を尊んでしまった。開国富国の大きなチャンスを逃がした。

次のブログにつづきます。

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