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田邉(辺)太一 子孫 田邉康雄 幕末外交の記事一覧

田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-4)

前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
<バルチック艦隊撃滅の勝因>
海軍の大艦巨砲主義は、薩摩の東郷平八郎の老害によるところ大。東郷の初陣は薩英戦争だった。日清日露の海戦を経験して自信過剰だった。日露戦争の勝利は作戦の勝利ではなくて、工学の勝利であることをすっかり忘れていた。B&S社を訪問して「日本海海戦の勝利はあなたたちが製造した距離測定器のおかげ」と演説したではないか。T字戦法で勝ったのではない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から更につぶやく。
<大艦巨砲主義>
大東亜戦争の緒戦において日本は、航行中の英国戦艦プリンスオブウエールズと重巡レパルスを航空機によって撃沈した。これは画期的成果だった。一方、戦艦大和と同武蔵は、航空機による攻撃を受けて戦わずして撃沈された。敵をとられたのだ。大艦巨砲主義を捨てて空母建造作戦に変更していたら、大東亜戦争は別の形になっていた。いや開戦しなかったかも知れない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
<陸軍の精神主義>
長州の伝統を引き継ぐ陸軍もひどい。オーエスタンレー山脈越えポートトモレスビー攻略、ニューギニア戦線はひどい。その後の補給なしの銃剣突撃によるインパール攻略作戦、これら無謀な作戦は、長州の伝統だ。後先を考えずに倒幕戦争の戦端を開いた長州の伝統そのものだった。1864(元治1)年に攘夷の勅状を真に受けて下関で外国船に砲撃開始した長州そのものだ。

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明治維新なる名称を使った薩長の詭弁を突く。

田邉太一はつぶやく。
<薩長の倒幕戦争>
松平直克が政治総裁になった時期は、幕末の動乱期だった。1863(文久3)年8月18日の政変→七卿落ち→生野の挙兵→蛤御門の変→第一次長州征伐→第二次長州征伐→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と繋がる明治武力革命の発端時期に当たっていたのに本人はそれに気がつかず、それを防止できなかった。幕府上層部は何をしていたのか。無能の一言に尽きる。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書幕末外交談から(4-3)

前ブログからつづく。

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600年振りに成った源頼朝子孫、薩長の復権

田邉太一はつぶやく。
<源頼朝の怨念を薩長が晴らした>

明治の薩長政府は、北条によって鎌倉を乗取られた源頼朝の側近島津と毛利が750年振りに復権したと見れば面白い。頼朝の庶子、島津忠久は北條政子の嫉妬を受けて、僻地薩摩へ左遷された。腹心大江広元の子、毛利季光も僻地長州へ。頼朝の墓に、頼朝に寄り添うように忠久、季光の墓が並んでいるのは実に興味深い。もちろん後の世に島津毛利が建てたものだが。

田邉太一はつぶやく。
<薩長は新貴族を創って自分が貴族になった>
薩長武力革命政府は、歴史的貴族を廃して新たな貴族をつくり、自分が貴族になった。欧州のプリンス、デューク、カウント、バイカウント、バローンを古代支那大陸の封建時代、周王に封じられた公爵、候爵、伯爵、子爵、男爵を当てはめた。自分達が入り込める形にしたと言わざるを得ない。伊藤博文は公爵、大久保利通も侯爵だ。下級武士から貴族トップだ。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
<薩長は自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした>
薩長武力革命政府は、自分達が貴族になるだけではなく、自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした。例示すると日清日露戦争で功績を上げた薩摩出身の陸軍大将大迫尚敏・尚道兄弟を子爵・男爵に列した。軍人は戦争をすれば出世するという枠組みをつくり、戦争が必要とされた。これが大東亜戦争に突入した真の理由だ。後の世に提唱されたシュンペーターの理論通りだ。

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頼朝軍事政権の末路

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
<大日本帝国陸海軍>
徳川幕府が江戸に開いた軍事政権を薩長が倒して自分たちの軍事政権を樹立した。大日本帝国陸海軍は、薩長軍事政権の拠り所だった。この軍事政権が大東亜戦争をまねいた。この敗戦によって薩長軍事政権が明治武力革命以来70有余年でやっと崩壊し、民政がやっと実現した。その代償は大きく、幕府が守った北方領土/竹島を実効支配され、沖縄/小笠原すら一時失った。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-2)

前ブログからつづく。

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幕末外交談を書き終わった際の気持ち。

田邉太一はつぶやく。
<幕末全体を回顧して繰り返し繰り返し慨嘆する>

徳川幕府がやってきたことを素直に見ると、尊皇攘夷をめざして果たせずに、最初から最後まで無駄に時間を費やした歴史にすぎない。私は断固として言う。主張して曰く「徳川幕府には外交政策がなかった。外交なんてものはなかった。単に朝廷の御意向をその場しのぎで尊重し奉って攘夷を約束し、結果としてその約束が達成できなかった不毛の軌跡だった」と。
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田邉太一はつぶやく。
<ストレス解消>
「幕府に外交のことなし。ただ朝意を奉じ、鎖国攘夷を図って遂げざる跡のみ」。これを言って長年もやもやしていたものが、一気に吹き飛んだ。もう何時でも、阿弥陀如来様の御下に参上してもよい。阿弥陀さまも「よくやってきた」と頭を撫でてくださるだろう。42歳で惜しまれて死んだ兄孫次郎に代わって次男の私が田辺家を再興したことを父石庵にほめてもらおう。

田邉太一はつぶやく。
<幕府外交はよくやった>
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

田邉太一はつぶやく。
<幕府外交はよくやった>
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月(2001年)に、第二回は10月に、そして第三回目~第四回目を12月7日に投稿しました。以下、第四回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。

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前回は幕末外交談の「擱筆のことば」を紹介しました。これは"あとがき"とは明記されていませんが、それに相当する部分です。ここで太一は鬱憤晴らしをやりました。今回は、この鬱憤を、太一の屋敷跡に住む太一の子孫が、太一から直接聞いた気分になって更に拡大して紹介します。

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阿部正弘の無策をくどくどと嘆く。

田邉太一はつぶやく。
<江戸城金庫が空>
阿部正弘がやるべきことは以下のようなものであった。従來の長崎に加えて横浜、神戸、函館など幕府直轄地に限定し、かつ、外人の行動範囲を制限して開国する。その際、清に使節をだして上海の租界を大いに学び、わが国に不利な事態が発生しないように事前に防備策を立てる。貿易を管理貿易とし、外国品に関税を掛けて幕府の収入として江戸城金庫を富ます。

田邉太一は更につぶやく。
<諸藩に相談する必要はなかった>
阿部のこと続く。関税で金を稼ぐだけでなく、幕府自ら、あるいは自らの息のかかった商人を使って貿易をする。稼いだ金でフランス、イギリスから軍艦と銃砲を購入する。これにより幕府陸海軍を強化する。この路線を推進できる小栗忠順を重用する。このことは幕閣内部だけで図り、諸藩には相談しない。決定事項を従來通り天皇に上奏する。これで良かった。

田邉太一はつぶやく。
<幕府の米本位制財政のつけ>
幕府は鎖国して米本位経済を推進した。米の生産者を支配するために、兵農分離政策をとった。兵(武士)は都市で武術に励み、農は地方で農耕に励んだ。農を支配するために地方に郷士(庄屋)をおいた。一方、流通を担当する商人を支配する兵商分離政策をとらなかった。これが幕府を衰退させた。城下町に商を支配する"町士"を作ればよかった。商を支配できなかった。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-8) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(13)故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと
ペリー来航以来、幕末に至るまでを通して見ると、私は幕府上層部を弾劾する。幕府上層部には外交を語る資格はない。天皇の御意向に沿って、なるほどその御意向は薩長が誘導したものであったが、外国人を打ち払って鎖国を継続しようと努力をし、悲しいことにはその努力が報われなかった軌跡だけが残ったと。これを言って気分がさっぱりした。まことに爽快である。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-7) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(11) 松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器ならず、
川越藩主松平直克政治総裁は、気骨のある人物で"お坊ちゃん"ではなかったが、時の流れを見る目がなかった。幕府にチャンスがあるという洞察力にとぼしく、薩長に"いいように"利用されてしまった。このような無能者を政治総裁に据えなければなかった幕府上層部のお粗末さを嘆く。太平に慣れた幕府上層部の人材不足が薩長による明治武力革命をまねいたのだ。

(12)中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交た
る所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝその方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、
老中を任命された唐津藩主小笠原壱岐守長行、白川藩主阿部豊後守正外、蝦夷松前藩主松前伊豆守崇広等は、開国の必要性を知り、外交の"何たるか"を知っていたようであるが、残念ながら歴史舞台への登場が遅かった。すでに薩長の目論む方向に政治は動いていた。幕府上層部には薩摩の大久保のような策士がいなかった。小栗上野介の出番が遅すぎた。なかった。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-6) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(9)されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへとも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、
やっていることが分からなくなった好例は越前藩主松平春嶽である。言っていることとやっていることが違う。自藩の藩士の総意は"開国"にあるといい、自ら開国を主張していたのに、やったことは鎖国攘夷だった。つまり幕府側の人間でありながら、薩長の味方をした。本人がそのことに気がついていなかったのが嘆かわしい。賢公の名が惜しまれる。已ぬる哉。

(10) 板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力めて、朝意を回するの慮なきものゝごとし
安政の大獄に反対して井伊に罷免された備中松山藩主板倉勝静は、井伊の死後老中に復帰したが、もっとひどい。本人の資質は極めて高かったが、外国が攻めてくるという時期には通用しなかった。天皇の御意志に従うことばかり考え、御意志を変えていただくような工作はできなかった。太平の世ならば、祖父松平定信に負けない善性を敷いたであろうに。資質を惜しむ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-5) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(7) これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るべきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、
井伊の後の幕閣トップは老中對馬守安藤信正だった。安藤は生まれつき聡明であり、臨機応変の心得をもっていたので外交上少しは見るべきものがあったが、井伊が天皇に約束した鎖国攘夷の縛りはどうすることもできなかった。その上に天皇の妹、和宮の将軍家への嫁入りを迎えて、益々天皇の御希望、鎖国攘夷を硬く約束する羽目に陥ってしまった。見ていて苦しい。

(8) ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、
外国から受ける開国圧力と、天皇から受ける攘夷との板ばさみになった幕府は哀れだった。幕府は薩長の策略によって右往左往させられ、何にか知らねど恐れおののき、外国と天皇との間をうろうろと彷徨い、行ったことは結局、鎖国攘夷を成し遂げて天皇の御意志に沿おうという政策になってしまった。自分で自分のやっていることが分からなくなってしまったのだ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-4) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(5)而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、左支右吾以て其志を達するを得る能はず、
阿部の死去に伴い佐倉藩主堀田正睦が老中筆頭になった。彼には期待したが、時すでに遅かった。堀田は開国の規模をさだめて天皇を説得し、開国によって列強と正々堂々と競争しようと考えた。これは勘定奉行小栗上野介が考えた路線である。惜しむらくは、無策な阿部正弘が天皇に「どうしましょうか」とお伺いを立てた後だった。すでに流れが変わっていた。

(6)これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり
堀田の次に彦根藩主井伊直弼が大老として幕閣トップになった。時勢は「開国やむなし」であることは理解したようであるが、井伊の関心事は「幕府権威の回復」であり、外交は二の次になってしまった。それだけではない。朝廷に対して条約の許しを得る際、その場しのぎの策として鎖国攘夷を約束してしまった。これが禍根の種。時勢からできる訳がない。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-3) ― 子孫が語る。

徳川幕府のNo.1"職業外交官"田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より感謝を受るの理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功なくんばあらず
駐日英国公使は「日本三年在住記」の中で言う。曰く「オランダ政府は、『アヘン戦争の二の舞にならないように』と日本に1年も前から繰り返し忠告した。日本においてオランダ以外の欧米列強国が活動する道を開いたことは、列強の一員として感謝している。オランダのお蔭でペリーは日本を開国させることができた。オランダ政府に感謝しても感謝し足りない」と。

(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、
オールコックは、オランダ忠告のお蔭で日本は開国できたといっている。しかしこれは少し言いすぎであろう。日本の開国は時流に逆らうことのできない処置だった。即ち開国そのものはオランダ政府の通告がなくてもやっていた。それにしてもペリー来航を1年も前に通告してくれたにも拘わらず、情報を活かし切れなかった阿部正弘の無策を嘆く。繰言になるが。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-2) ― 子孫が語る。

田邉太一をよく知る徳川幕府の外交官田邉太一の子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

前ブログからつづきます。この文章自体が田邉太一のつぶやきです。行間を読んでこの「つぶやき」の真意を紹介しましょう。書き出しの先頭に付いている数字は、本文の枠の上に付いている数字に同じです。この数字によって引用箇所を明確にしました。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に関する事、余耳目がの及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、
幕府外交の生き字引である私が見聞きしたことはおよそ以上のようなものである。誇張や捏造はせず、ありのままを紹介した。これですっきりした。終わりに当たって言わしてもらおう。幕府外交は、外交と呼べるものではなかった。海の向こうの外国人よりも京都におられる天皇の御意向を尊重し、鎖国攘夷を図って、それが出来なかった悲しい歴史であった。

(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず
1853(嘉永6)年ペリーが初回来航した際、老中筆頭阿部正弘は"開国"の必要性を感じていたようだが、他の幕閣には阿部の意見を支えるような見識のある人物がいなかった。それどころか、"鎖国"継続を主張するものが多かった。阿部は敢えて開国を推進するような勇気がなかった。だから姑息に流れ、因習を尊んでしまった。開国富国の大きなチャンスを逃がした。

次のブログにつづきます。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(3-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月(2001年)に投稿しました。第二回は、3ケ月を経た10月に投降しました。そして第三回目を去る11月18日に投稿しました。以下、第三回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。

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ノンフィクション:蓮舟田邉太一のつぶやき(3)
~ 翁の著書「幕末外交談」から ~

前回は幕末外交談の「まえがき」を紹介しました。「あとがき」はありませんが、本文の終わりの直前に以下の記載があります。内容は"あとがき"とも言えるものですから、ここに紹介します。532頁の9行目から535頁の4行目までを紹介します。原文の使用漢字はそのままであり、改行位置もそのままです。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に關する事、余が耳目の及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず(3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目
を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より謝を受る
 の理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功 なくんばあらず、(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、阿部閣老が、此機を用て、其勢を制するに及ばざりしは、(5)實に遺憾とするに足れり、而して堀田閣老が 次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、(6)左支右吾以て其志を達するを得る能はず、これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を(7)朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり、これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るへきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、(8)鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る(9)所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへ(10)とも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力め(11)て、朝意を回するの慮なきものゝごとし、松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器(12)ならず、中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交たる所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝ(13)その方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと

次のブログにつづきます。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-26)

前ブログからつづきます。

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<幕臣への道>
徳川幕府の幕臣は世襲制だった。儒学者の家、俸禄200石の家に生まれた私ではあったが、兄の家籍に属する「厄介の身」だった。だから私には身分取り立ての機会は本来皆無だった。次男以下が徳川の家来、即ち幕臣になるには、子のいない幕臣と養子縁組するしか道はなかった。しかし私は自力で幕臣になった。幕末動乱の世だから可能だった。

<幕府海軍伝習所入学と語学>
私は甲府徽典館の教授を辞めて長崎に行き、幕府の海軍伝習所に入所した。私は三期生だった。ここでオランダ海軍から派遣された教授達に航海術、造船学、機関学、算術等をオランダ語によって習ったが、内容よりも習ったオランダ語がその後大いに役立った。後、外国との交渉のため、必要に迫られて英語とフランス語をマスターした。清国とは筆談で苦労はしなかった。

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<父親の素性>
父石庵は尾張の人であり、元は村瀬誨輔といった。徳川尾張藩の藩校明倫館において秦鼎に漢学を学んだ儒者だった。村瀬の名で上梓されている書籍が少なくない。後に江戸に遊学した際、雑学者田邉貞斉に養われて田邉姓に改めた。頼山陽と親しく交友があり、彼が日本外史を書くときに、父石庵に種々の調査依頼をし、その問合せ書簡が甥の朔郎家に保管されている。

<甲府代官の娘と結婚>
父石庵は幕府の昌平坂学問所の教授方出役となった。程なくして幕府直轄地甲斐の国の学問所、甲府徽典館の学頭となった。15歳の私は父に誘われて徽典館へ同行した。後年教授になった。この時の縁で清兵衛の娘己巳子と結婚した。己巳子の兄は、荒井郁之助であり、以後戊辰戦争まで共に幕府のために働いた。親戚縁者の絆で世の中を動かしたのだ。

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自分の生い立ちに関して田邉太一はつぶやく。
<田邉家は代々学者家>
私は三河譜代の田辺家、儒学者田邉石庵の次男に生まれた。父は昌平坂学問所の教授から、甲府徽典館の学頭となり、甲府勤番幕臣師弟の教育を受け持った。石庵の養祖父田邉貞斉も学者であり、江戸名家墓所一覧に記載されている。浅草本願寺(後の東京本願寺)に、六代遡った田邉菊忠から父田邉石庵まで埋葬されている。

<伝説の祖先>
紀州田辺の熊野別当堪僧、即ち田邉堪僧が祖先だといわれている。堪僧は熊野水軍をもっていた。そして源平合戦において源氏に加勢して壇ノ浦の大勝利をもたらした。堪僧の祖先は歌人藤原定家である。よって田邉家の氏が藤原である。鎌倉幕府が開らかれた際、田邉堪僧の子孫が鎌倉にはせ参じ、室町、戦国を経て徳川の御家人になったと伝承される。

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