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柳営会の記事一覧

NHK歴史秘話ヒストリア~明治の京都復興物語、大河ドラマ「八重の桜」の山本覚馬と田邉朔郎

昨夜(2013AUG28)NHK総合「歴史秘話ヒストリア」番組において大河ドラマ「八重の桜」にでてくる八重の兄、山本覚馬とともに田邉朔郎が紹介されました。

私も視聴しましたが、番組の骨子は以下の通りでした。

京都は、幕末動乱(禁門の変)において焼野原となり、かつ、天皇陛下が東京へ御移り(遷都宣言の無い遷都)になって衰退した。これを山本覚馬は、「外国人観光客」の誘致により、つづいて田邉朔郎は一兆円プロジェクト、琵琶湖から京都へ「多目的運河」(琵琶湖疏水)の建設により京都を復興させた。朔郎は、日本初の売電事業用水力発電を成功させ、日本初の電気鉄道を可能にした。前者の「外国人観光客の誘致」は、現在の「国際観光都市京都」、後者の「琵琶湖疏水」は「先端科学技術都市京都」の礎になった。

田邉朔郎は、後に北海道の鉄道敷設、世界初の海底鉄道(関門トンネル)、新幹線計画など82歳で亡くなるまで第一線で活躍した。

以上が番組内容の要約でした。

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柳営会とは(19)・・・幕臣子孫の会

その際、書下し方針として以下のルールを定めました。即ち、訳出原本から判読不明として○○の状態になっていたところを推定して記入し、かつ、全体を翻訳した。翻訳に当たっては、この人名辞典は、本人が書いて幕府に提出した履歴書であると想定して訳出した。【 】内は、訳者による追加説明しました。

田辺孫次郎
高現米八十石 本国越前 生国武蔵 祖父田辺了水(次郎大夫) 死御書院与力相勤申候父田辺新次郎死富士見御宝蔵番相勤申候

【六代】田辺孫次郎
自分の【家禄】高は現米80石でございます。祖先の出身は越前の国であり、生まれは武蔵の国でございます。
自分は、祖父田辺次郎大夫(了水)が死亡後家督相続して『御書院与力』を勤めておりました父田辺新次郎が死亡後家督相続して『富士見御宝蔵番』を勤めております。

注)1
田辺次郎大夫(了水)とは、1835〔天保6〕年に歿した四代田邉次郎大夫克忠〔法名:釈了水、享年79歳〕の事。

注)2
田辺新次郎とは、1856〔安政3〕年に歿した五代田邉新次郎誨輔石庵〔法名:釈了石、享年76歳〕の事。

○○月七日従部屋住御書院与力見習罷出 同(天保)十一子年四月十一日御抱人与力被仰付幕府講武所西洋砲術教授方出役

自分孫次郎は、○○月七日に『部屋住』から『御書院与力見習』に罷り出て、同(天保)十一子年【1840年】四月十一日に、『御抱人与力』を拝命し、幕府『講武所』西洋砲術教授方として出役いたしました。

家督奉願候ニ付 同(安政)四巳年十一月六日願之通仮御許受 同五牛年ニ月四日家督被下置

父新次郎が死亡したので、自分孫次郎は家督を相続させてほしいと願い出て、同(安政)四巳年【1857年】十一月六日に願いの通り、仮にお許しを受け、同五牛年【1858年】二月四日に正式に家督相続させていただきました。

如父時小普請組大島丹波守組江入是迄之通引続相勤 其後組頭替 戸田民部組江入 万延元甲年十月○○日富士見御宝蔵番被仰付○○是迄之通引続出役相勤被仰渡候

家督相続した後、自分は父新次郎が【昌平坂学問所へ出役】させていただいた時のように、『小普請組』大島丹波守の組へ入り、これまで通り引き続いて【講武所へ】出役いたしました。その後『小普請組』戸田民部様の組へ組替えとなりました。
万延元甲年【1860年】十月○○日に『富士見御宝蔵番』を拝命し、○○是迄の通り引き続き【講武所へ】出役し、相勤めよと仰せ渡せられました。

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柳営会とは(18)・・・幕臣子孫の会

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 前回は、私から7代遡った田邉次郎大夫貞斎の墓碑を紹介しました。今回は、5代遡った田邉石庵を紹介します。『大日本人名辞典(三)』講談社、昭和55年8月10日第一刷発行の『タナベ セキアン』の項をそのまま引用します。

田邊石庵 儒者、名は誨輔、字は季徳、號は石庵、通称は新次郎(一に晋二郎に作る)、尾張の人なり。もと村瀬氏、少なうして秦鼎に従いて学ぶ。會々藩士(幕臣の誤り)大番与力田邊次郎太夫(克忠)養うて子と為す。後、昌平黌出役となり出役中甲府徽典館学頭となる。自抄の史多し。當時唐本の舶来極めて少なく、殊に清人の著述は少中の少なり。石庵謂へらく、隣国現今の形勢を知るは急務なりと。清の地志及び清人の詩人の文詩集その他雑書に就き左右採擷(択?)し、以て八百餘人の清朝名臣名士傳を撰す。世に傳ふるところの清名家小傳これなり。また文を学ぶもの或いは近世の文を見る能はざるを憐み、其の正しきものを撰び清の朱竹拕より遡って明の帰震川、王遵岩、唐荊川、王陽明、方正学、宋潜渓の文粋を編せり。著す所他に続左傳合案、史漢合解、国策論文、清名家外傳等あり。また書を弄ぶ。安政三年十二月十二日歿す。年七十六、二子あり長男孫次郎、號は勿庵(堂の誤り)。西洋流花術を以て世に顕はる。早く死す。子あり朔郎といふ。次男太一、號は蓮舟。石庵の墓は浅草區東本願寺本堂の裏にあり(吉田賢輔氏編)。


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柳営会とは(17)・・・幕臣子孫の会

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私田邉康雄から7代遡った田邉次郎大夫貞斎は、学者として名を成し、江戸名家墓所一覧に荻生徂徠、山鹿素行と共に記載されています。

浄土真宗東本願寺派東本願寺ひばりが丘別院墓地【1 - ハ - 5】田辺家累代の墓所(墓所確認では初代丘忠~六代孫次郎勿堂)の奥の右角に存在する田邉貞斎(墓所確認では三代目)の墓の墓碑に以下のように記載されています。

【表面】
田邉経忠之墓 婦人吉田氏祔
【向かって左側面】
是田邉君之墓也君謂経忠字世篤號貞斎称次郎大夫以享保十一年丙午生于武蔵西大久保郷本姓原氏源晴満次男子也延享四年丁卯田邉藤原丘忠無子乞為嗣寛延四年辛未田邉丘忠翁歿君嗣為後同年三月二十五日為墜士以中川庚之醫士吉田氏之女妻生一女四男其一女夭世子曰克忠即敬忠次行
【裏面】
忠即季忠皆小君重稚禎敏好読書能属文及長博覧史籍終入千坂昌周之門善連歌其為人也礼儀不愆未倹廉貞慎而寡言惜哉君安永二年癸巳閏三月十一日病卒于城址台山下邸宅年四十有八葬于浅草本願寺先塋側克忠嗣為墜士称荘次郎請督銘其墓為督與君固居同邸交遊隆数歳今君先歿哀哉督雖不敏交義不可廃也督既受君知愛不敢拒其請遂為之銘銘曰

【向かって右側面】
嗚呼経忠生倣英雄 連歌安永三年甲牛三月龍山源督莫亮識平○松之○○  田邉克忠 

【訓読文】
田邉経忠の墓 婦人吉田氏を祔す。
是は田邉の君(きみ)の墓。君は経忠といい、字(あざな)は世篤、号は貞斎という。次郎大夫と称す。1726(享保11)年の丙午(ひのえうま)に、武蔵西大久保郷に于(お)いて生(うま)る。本姓が源(みなもと)、原晴満の次男なり。1747(延享4)年、丁(ひのと)卯(う)の年に田邉藤原丘忠は子が無く、君を養子に乞(こ)う。1751(寛延4)年、辛未(かのとひつじ)の年に田邉丘忠翁は歿す。君は丘忠の後を嗣いで同年三月二十五日に墜士となる。中川庚(こう)に住む医師、吉田氏の娘を妻に迎え、女一人と男子四人を生む。女子は夭(おさ)なくして没す。男子は、克忠、敬忠、行忠、季忠。皆小人なるも、君は稚(おさな)きを重んじ、禎(てい)(神の恵み)に敏(さと)く(感謝し)す。読書を好み、能く文を属(つづ)り(書き)、長ずるに及んで、博(ひろ)く史籍を覧(み)る。終に千坂昌周に入門し、連歌を善くす。其の人となりや、礼儀に愆(あやま)たず(正しくし)、倹廉を未(おもん)じ(質素を重んじ)、慎(つつしみ)を貞(ふか)く(慎み深く)してことば寡(すくな)(少な)し。君は1773(安永2)年、癸巳(みずのとみ)、閏三月十一日に城址台山下邸宅に于(お)いて病に卒(たお)る。年四十有八。浅草本願寺先の塋側(墓地)に于(お)いて葬る。克忠が後を嗣いで墜士となる。荘次郎を称し、其の墓の銘を督(とく)す(書く)を請う。君と居を固め、邸(やしき)を同じくして交遊は数歳(ねん)に隆(さかん)にす。君は今、先に歿す。哀哉(ああ)、督す(墓碑を書く)と雖(いえ)ども敏ならず、義に交るを督(み)る。廃れるべからざるなり(これを無にしてはいけない)。督(とく)(墓碑を書くこと)を既に受く。君は愛を知る。敢えて其の請(依頼)を拒まず。遂に之を為す。銘銘に曰く、嗚呼(ああ)、経忠生まれて、英雄の連歌を倣(なら)う。1773(安永3)年三月 龍山源督莫亮識平○松之○○(判読不明)  田邉克忠 

以上、田邉康雄【貞斎(田邉家墓所確認3代目)の子孫(同9代目)】が碑文を写真撮影(全文保管)し、原文を掘り起こして、読(よ)み下す。平成二十四年五月月六日

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柳営会とは(16)・・・幕臣子孫の会

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 学問の家、田邉家の現在にいたる伝統を紹介したので、今回は歴史を遡ります。

1. 田辺家は紀伊田辺の住人熊野神社の別当、田辺湛増の子孫であり、私はその29代目です。
2. 丹後田辺を経由して甲斐武田の家臣となり、後、徳川家康に仕えました。
3. とくに江戸時代の後期になると学問をもって人に知られるようになりました。
4. 朔郎は1861(文久1)年、徳川幕府講武所西洋砲術科教授、田辺孫次郎の長男として生まれました。
5. ところが一歳の時、父親が当時江戸に流行った麻疹で死亡し、母子家庭になりました。
6. 本来なら生活にも困る状態でしたが、幕府は朔郎を小普請組扱いにしてくれました。
7. ですから生活に困ることはございませんでした。これは祖先の遺徳と言われております。
8. 朔郎には学ぶ環境が整っていましたから、四歳半にして漢文とフランス語の勉強を開始しました。
9. 徳川慶喜による大政奉還時に、朔郎は七歳と十一ヶ月になっていました。
10. 江戸城無血開城後の戊辰戦争の最中、天皇を頂く薩長討幕軍は、徳川家に静岡藩70万石を与えました。
11. 徳川家が旗本に示した身の振り方は三通りありました。①新政府に出仕する、②無録で静岡藩士となる、③知行地に帰る。
12. 殆どの旗本が無録を厭わず静岡藩士を選びましたが、朔郎一家はこの選択肢のどれもとれませんでした。
13. 代わって江戸開城の翌日に埼玉の幸手に逃避しました。
14. 逃げた理由は、薩長軍のみならず、旧幕臣の守旧派からも迫害を受けたからでございます。

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柳営会とは(15)・・・幕臣子孫の会

「柳営会とは(14)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。

前回述べたように田邉家は、徳川将軍家の後半においては学問で立身した家であり、その伝統は明治・大正・昭和・平成と現在までつづいています。以下にその伝統を述べます。

―― 戊辰戦争で悲惨な境遇に落ちた祖父田辺朔郎は、苦労して京都に行き、琵琶湖疏水を設計・建設して東大教授、京大教授になりました。

―― その嗣子田邉多聞は京都一中、三高から東大工学部/法学部を出て高文に合格して官僚となり、内務省に入省して45才にして勅任官になりました。47才の時に大東亜戦争敗戦によって職を失いました。しかし学問をしていたので立ち直りました。

―― 多聞の子、私田邉康雄は京都の鴨沂高校から京大工学部燃料化学を出て三菱化成(化学)に入社し、今日までエンジニアとして活躍してきました。学問を身につけたお蔭です。

―― 私の長男は東大工学部応用化学、次男は東京工大応用化学、長女は早稲田大学建築学のそれぞれ修士をでてエンジニア一家五代目として活躍しています。
田邉家は学問を身につけて立身する家なので、三人の子供にも学問を身につけさせました。この伝統は今後子孫代々守ってくれるでしょう。


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柳営会とは(14)・・・幕臣子孫の会


「柳営会とは(13)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。

徳川将軍家譜代旗本田辺家の暮らしを紹介します。私から七代前の田邉次郎大夫貞斎は大番与力としにて番方の仕事をしながら、学問分野で名を成しました。田邉学問家の初代とも言えます。ただしこの時は、まだ「出役」ではありませんでした。

五代前の田邉新次郎石庵は、書院番与力から、昌平坂学問所の教授方出役や、学問所分校である甲府徽典館の学頭に出役しました。

四代前の田邉孫次郎勿堂は富士見宝蔵番士から幕府講武所教授方に出役しました。三代前の田邉朔郎石齋は、小普請組から学問をして明治になってから東大教授を経て京大教授となりました。

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柳営会とは(13)・・・幕臣子孫の会

「柳営会とは(12)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。

 ここで徳川将軍家譜代旗本田辺家の暮らしを紹介します。譜代旗本田辺家の暮らしを紹介します。大番与力、書院番与力、富士見宝蔵番士だったとすでに紹介しました。

与力は江戸市中を馬に乗って通行する特権が与えられていました。そこで私から7代前の大番与力田辺次郎大夫貞斎の生活ぶりを一部想像も加えて再現してみましょう。

騎乗権を行使するために、馬一頭を飼っていました。多分予備としてもう一頭飼っていたでしょう。すると馬丁が一人必要でした。さらに登城の際は、列の前に槍を立てることになります。ですから槍持ち一人、そして家来が必要です。だから家侍一人、さらに雑用担当の仲間が2~3人要ります。合計5~6人の家来をもっていたと推定されます。ですから、「玄米年80石の給与」生活は決して楽ではなかったと思われます。

この「柳営会とは」の項をお読みになって、「柳営会会員資格がある」と思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。入会資格があるかも知れないと私が思った場合は、柳営会の事務局へ紹介申しあげます。

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柳営会とは(12)・・・幕臣子孫の会

「柳営会とは(11)」からつづきます。「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。

幕臣としての田邉家の家格は高くはなかったといいましたが、もともと甲斐武田家の黒川金山の「金山衆」の親方として「鉱山掘削」と金の精錬を業としていた技術者ですから、そのベースとなる学問には馴れ親しんでいました。ですから、ごく当たり前のように副業として学問を選びました。公認の副業を行うことを「出役」といいました。

この「柳営会とは」の項をお読みになって、「柳営会会員資格がある」と思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。入会資格があるかも知れないと私が思った場合は、柳営会の事務局へ紹介申しあげます。

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★生涯現役エンジニアになろう(通算18回目)、主催:新技術開発センター、開催日:2013年9月13日(金)、場所:大阪市天王寺区東高津町7-11、大阪市教育会館、講師:田邉康雄


60歳から日野原先生のような100歳まで40年もあります。働き盛りで子育てに忙しい、20歳~60歳と同じ40年です。人生二毛作という言葉がありますが日野原先生は、80年間に亘って「一毛作」をされています。
本セミナーの講師田邉康雄も20歳から76歳の今日まで56年間「一毛作」であり、あと24年間エンジニアとして頑張ると聞いています。
講師の頑張りの基盤は、若い頃から心がけた「自己啓発」だそうです。その上に立って「技術士」や「中小企業診断士」等を取ったそうです。これらの「資格」を活用して三菱化成(現三菱化学)を60歳定年退職した後独立して、76歳の今日までに2億1000万円を稼いだそうです。
セミナーでは、このノウハウを開示してもらいます。是非お聞きになって「100歳時代」の人生指針としてください。受講者は無料で生涯現役エンジニア塾に入塾できます。

<受講していただきたい方>
1. 現在「もの作り」企業で技術者として奉職されている方で、奉職先の為に技術継承をしっかりやりたいと考えている方。
2. 奉職しながら、人生の将来のために自己啓発したいが、その方向が分からない方。
3. 定年退職後に年金受給しながら専門技術を生かし、社会の一員として応分の貢献をしたいと考える方。
4. 企業の技術伝承の為の自己啓発の枠組みを立案する技術者教育担当部署の方。例えば人事部のマネージャー。
5. これから技術士試験に挑戦したい人、あるいは、すでに技術士資格を持っており、資格活用方法を知りたい方。
6. これから中小企業診断士試験に挑戦したい人、あるいは、すでに技術士資格を持っており、資格活用方法を知りたい方。
定めた自己啓発方策を継続させるために、生涯現役エンジニア塾に入塾したい方。

申し込み先は、以下の通りです。
株式会社新技術開発センター TEL 03-5276-9033  FAX 03-5276-9034 
〒102-0082  東京都千代田区一番町17-2 (一番町ビル)
「有限会社田辺コンサルタント・グループのホームページで見た」と言われると、通りがはやいです。

★生涯現役エンジニアになろう(通算18回目)、主催:新技術開発センター、開催日:2013年9月13日(金)、場所:大阪市天王寺区東高津町7-11、大阪市教育会館、講師:田邉康雄の続きを読む ≫

柳営会とは(11)・・・幕臣子孫の会


もともと家康公が制定した家禄は、その禄高の中で軍事の責任を持つという意味をもっていました。しかし平和な時代となり、軍事以外の経費の嵩む役目が増えてくると従来の仕組みでは対処できなくなってきました。
例えば江戸の人口が増え、町奉行の仕事が煩雑になると、などを遂行するためには、家禄だけでは十分には遂行できませんでした。吉宗はここに改革の手を入れたものです(享保の改革)。

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柳営会とは(10)・・・幕臣子孫の会

「柳営会」を簡単に言うと「幕臣子孫の会」です。「柳営会とは(10)」からつづきます。

 我が田邉家は、代々大番与力や書院番与力でした。譜代旗本ではありますが、前述した通り基本給(家禄)は現物の玄米年80石の給与生活者ですから、決して、「家格が高い家」とは言えません。甲斐武田家の遺臣として徳川家に仕えた身分でしたから、家格が高くないことは当然でした。
  
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柳営会とは(9)・・・幕臣子孫の会

柳営会とは、これを簡単に言うと「幕臣子孫の会」ということができます。そして幕臣に関連して徳川将軍家の仕組みを説明しています。

前回、出世の道は「武芸」から「学芸」に移行したと書きました。この動きに呼応して江戸湯島の昌平坂に学問所ができました。そこで「学問吟味」が行われました。これに合格することによって従来出世の道が無かった旗本の次男や、御家人にも道が開けました。

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柳営会とは(8)

柳営会に関連して徳川将軍家の仕組みを説明しています。

前回「家康のために命を投げ出した武士の子孫を末代までも面倒を見る」という家康の方針を紹介しました。よって面倒を見てもらっている子孫が幕府の中枢を固めるという結果になりました。ですから子孫は、幕府中枢を守るための武芸に励みました。しかし平和な時代がくると、武よりも文が幕府中枢を守るための必要な力量となりました。言い換えると、出世の道は「武芸」から「学芸」に移行したのです。

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柳営会とは(7)

柳営会に関連して徳川将軍家の仕組みを説明しています。

 徳川家康は、自分のために命を投げた部下に対しては、「その子孫を末代まで面倒を見る」という原則を確立していました。これが家康家臣団の強力な結束の源でした。この原則の故に子孫は代々家禄が受給されていました。そして代々家禄を受けている家の出身のものだけが幕府という官僚組織の中で出世できました。もちろん例外があったことは、前回述べました。

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