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田邉(辺)太一 子孫 田邉康雄 幕末外交の記事一覧

徳川将軍宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶湖疏水の祖父田邉朔郎-5

徳川将軍家は、今川遺臣、北条遺臣、織田遺臣を多く採用し、三河譜代の家臣団を強化したことが、260年の長期間平和時代の基礎であったと言われます。確かに信長や、秀吉には結束した家臣団はいなかったようです。信長などは、有力家臣、明智光秀に殺害されました。秀吉は、長浜以来の子飼いの家臣(加藤清正、福島正則など)だけが頼りだったようです。

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田邉康雄は『岩倉使節団随行幕臣子孫の会』を立ち上げました。

岩倉使節団とは、高等学校の教科書にも載っているので説明の必要はないと思います。しかし記憶を新たにしていただくために若干の説明を加えます。

団長は、岩倉具視でした。以前、五百円札の顔でした。岩倉使節団とは、彼を全権大使をリーダーとする遣米欧使節団のことです。出発は、1871(明治4)年11月15日であり、帰国は1873(明治6)年9月13日でした。副団長は、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚芳の四人でした。

訪問先、米欧列国政府のアポ取り、スケジュール調整、本国との通信、旅費送金、通訳など、使節団を支えた裏方が、旧徳川幕府の外国奉行所に勤務していた幕臣団です。14名中13名までが旧幕臣でした。これを岩倉使節団随行幕臣と称します。そのまとめ役が随行書記官長田邉太一でした。それら幕臣の子孫は、現在のところ私を含めて三人が判明しています。

今回、とりあえず『立ち上げ宣言』をしました。『柳営会』の会員であり、かつ、田邉太一の甥の孫である私にしか宣言できる人はいないと思った上での『挙手』です。先生に指される前の挙手ですから、早まって「手を上げた」かもしれません。しかし今後、賛成者が出てきて何らかの活動ができれば、これに越した幸せはありません。

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★幕末の四舟のひとり、蓮舟田邉太一を子孫の田邉康雄が語る。【5月21日】【国際文化会館】【米欧亜回覧の会】【会員1000円】【一般2000円】。

明治4年に岩倉具視を団長とする訪米訪欧視察団がありました。帰りにアジアの諸国を訪問したので実態は、訪米訪欧訪亜視察団でした。これに興味をもつ人の研究会が【米欧亜回覧の会】http://www.iwakura-mission.gr.jp/です。私は2007年から会員であり、今回会の歴史部会から依頼を受けて蓮舟田邉太一の話をすることになりました。
蓮舟田邉太一は、該視察団の書記官長でした。私は、蓮舟田邉太一の甥、田邉朔郎の孫であり、太一の事跡の継承家です。
会場の【国際文化会館】は、都営大江戸線麻布十番駅から徒歩10分のところにあります。会員以外でも受付てもらえますから、御希望の方は私へ御一報ください。

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田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)翁の著書:幕末外交談から(5-5)

前ブログからつづく。Continued from the previous blog.

伊藤博文はイギリスに密航した際、ジャーディン・マセソン商会のマセソンの知遇を得ました。このときの縁を頼って伊藤は「工学教育を日本で実行する方法を教えてくれ」と依頼しました。。
Hirobumi Ito came to be acquainted with Mr. Matheson of Jardine & Matheson Company, an international trading firm. Ito asked Mr. Matheson to teach him how Japanese students master engineering in Japan --- not in U.K.

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田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)翁の著書:幕末外交談から(5-4)

前ブログからつづく。Continued from the previous blog.

伊藤博文は幕末の動乱期に幕府が定めた国是、鎖国を破ってイギリスに密航しました。後の世で「長州ファイヴ」と賞賛される長州藩の陰謀でした。
 Hirobumi Ito, samurai, or a warior of Choshu Han --- presently of Yamaguchi Prefecture --- Local Government, together with other 4 samurais, violated Japanese Central law of Edo, presently of Tokyo, prohibiting going abroad without the government's permission and visited United Kingdom. This happened in 1863.

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(5-3 )

前ブログからつづく。Continued from the former blog.

最初の訪問国で頭を叩かれたたと前ブログで書きました。しかし使節団首脳は賢明でした。変身したのです。不平等条約を改定するには、国力を背景にしなければ話が進まないことを理解しました。そして失意の地、アメリカを去ってイギリスに渡った際に伊藤博文が動きました。

In the previous blog, I wrote, 'They got disappointed when they began negotiating with the U.S. Government and they failed.' They understood that the treaty could not be revised until the strength of Japan was enhanced. They were all got disappointed and left America. However, the members of the delegation were cleaver enough to change them. Their next destination was Europe where Hirobumi Ito started taking action.

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田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter) 翁の著書:幕末外交談から(5-2)

前ブログからつづく。Continued from the former blog.

最初の訪問国で頭を叩かれたたと前ブログで書きました。書記官長をしていた田邉(辺)太一は、これを見てさぞや溜飲が下がったでしょう。仮に大久保や伊藤が幕府時代の外交担当者だったとしたら、もっと日本に不利な条約を締結していただろうと思っていたからです。幕府外交官だった太一は、制約条件が多い中にあって大きな成果を挙げたという自負があったからです。

In the former blog, I wrote, 'The leaders of Iwakura delegation were hit at their head, when they visited U.S.A, the first visiting country'. I imagine that Taichi Tanabe was satisfied to see them. He must have thought, "If Okujbo and Ito were at the helm of foreign affairs of Tokugawa Government, they would have concluded worse treaty than actually done." Taichi had a big self-confidence that he had done very well as one of the officers of foreign affairs of Tokugawa government.

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田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter) 翁の著書:幕末外交談から(5-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この会は、明治初期の「岩倉遣米欧使節団」の事跡に興味を持つ人々の私的なあつまりです。
I, Yasuo Tanabe, belong to a Non Profitable Organization called "Study Team of Turn-around trip to U.S.A and Europe".

1871(明治4)年に岩倉具視を団長とした遣米欧使節団が日本を出発しました。この使節が岩倉遣米欧使節です。その目的は、徳川幕府時代に米欧列強諸国と締結した不平等条約の改定でした。この大きな目的は、最初の訪問国アメリカにおいて挫折しました。
In 1871, a negotiation team departed to U.S.A and to Europe in order to positively correct trade treaties therewith, which were considered to be partial to Japan. However, their big ambition was broken at the first visiting country of U.S.A.

使節団の副使、大久保利通や伊藤博文などは、「弱腰の徳川幕府外交に代わって自分たち薩長の強力メンバーが改定を勝ち取って来よう」と意気込んで出発しました。しかし最初の訪問国で頭を叩かれたのです。
Toshimichi Okubo and Hirobumi Ito, both deputy leader of the team, were optimistic to the coming negotiation. They thought, "The negotiators of foreign ministry of Tokugawa Government were very weak. This is the reason that we were forced to conclude partial treaties. Now, this is our turn, we are strong and hard negotiators. We are deferent". And the ambition was broken. This was what happened accutually.

次のブログに続きます。
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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-11)

前ブログからつづく。

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個人的満足

田邉太一はつぶやく。
<昌平坂学問所で教えてもらった倫理観>
私は"責に任じて"自分のことよりも、国家のことを考えて行動した。これは私の倫理観だった。この倫理観は、昌平坂学問所において儒学者の父、田邉石庵から教えてもらったものだ。責任を果たすとは倫理観に立って自分の仕事をすることだ。幕府時代の上層部に上層部としての責任を果たす気概のある人物が少なかったことは残念だ。だから薩長にやられたのだ。

田邉太一はつぶやく。
<長州に対する個人的エール>
薩摩は嫌いだが、長州は嫌いではない。長州軍の鳥取藩第8番隊長だった北垣国道(後の内務次官、枢密顧問官)が実の娘を甥田邉朔郎にもらってくれといった際に反対しなかった。長州藩騎兵隊の隊員、片山東熊(後の国宝迎賓館設計者)が朔郎の姉をもらってくれと言った際も反対しなかった。長州の人は単純でわかりやすい。決して策略を弄するようなことはなかったから。

田邉太一は更につぶやく。
<長州へのエール、つづく>
甥の朔郎は、長州伊藤博文の作った枠組みの中で生きさせてもらった。岩倉遣米欧の副使の一人、伊藤の働きによって産業革命の重工業発祥の地、スコットランドから数多くの教師を招聘して工部大学校(東大工学部前身)を設立し、学長に幕府時代の私の仲間、大鳥圭介を嵌めてくれた。大鳥は琵琶湖疏水推進者で長州閥の北垣国道に朔郎を推薦してくれた。長州はよい。

田邉太一は更につぶやく。
<学者田邉家の中継ぎを果たしたことへの満足>
薩長の世になったにもかかわらず、没落した幕府旗本田邉家を再興させたことが満足だ。父親代わりになって育てた田邉朔郎が土木で大成功した。朔郎の姉を嫁にだした片山東熊も建築で、私の娘三宅花圃も小説で、その夫、三宅雪嶺も評論で大成功した。老後は、娘花圃のところで好きな漢文の釈読をして静かに暮らそう。外務省退官後の吉原通いを忘れて。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-10)

前ブログからつづく。

田邉太一はつぶやく。
<薩長の廃仏毀釈を怒る>
天皇の利用が昂じて、神道を尊ぶがあまり、仏教を弾圧した。神道を尊ぶことはよい。しかし仏教を廃する必要はない。特に薩摩がひどい。徹底的に寺を破壊した。伊勢神宮のお膝元、三重県もひどかった。古来の土着宗教を仏教で補強して国の形ができていたのだ。それを壊した。寺家、公家、武家の内、寺家を抹殺した。廃仏毀釈である。その社会安定に対する罪は大きい。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩を許せなかった自分の限界>
従来の姿勢と相反して徹底抗戦を主張した自分を許せなかった。人前に出ることが恥ずかしかった。どの面下げて国家のために働くことができるかという思いだった。それに加えて、薩摩が大嫌いだった。この二つによって、請われて明治政府に外務省へ出仕した後も、「吾不閑焉(吾関せずえん)」と傍観者的態度をとらざるを得なかった。それが自分の限界であった。

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江戸城無血開場に反対した理由。

田邉太一はつぶやく。
<なぜ徹底抗戦を主張したか?>
幕府時代には、職を解かれることを覚悟して、(国を思って)上司に開国を直言した。実際そうやって職をとかれた。こんなに積極的に動いた私が明治になってから「吾不閑焉の態度をとったことをいぶかしく思う人があるだろう。自分でもよく分からないところがある。榎本、大鳥、荒井が誠心誠意薩長政府に協力したのに対して対照的だった。しかしそれしか出来なかった。

田邉太一は更につぶやく。
<無血開城してよかった>
私は心ならずも小栗忠順の路線に沿って、榎本、大鳥、荒井とともに"徹底抗戦"を主張した。徹底抗戦すれば、日本を二分した内戦になる。フランスが支援する東日本対イギリスが支援する西日本だ。戦いが終了した時点で日本民衆は疲弊し、東はフランス植民地、そして西はイギリス植民地、北海道はロシア領、そして後年朝鮮半島もロシア領となった筈だ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-9)

前ブログからつづく。

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長州は許すが薩摩は許せない太一。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩にはひどい目に会った>
薩長が投げかける無理難題を躱(かわ)すため、私はフランスへ無為の出張をさせられた。外国事情をつぶさに見させてもらったことは有難かったが、外国に拒否されることが明らかに分っている申し入れをわざわざ外国にまでいかされたことはつらかった。徳川昭武に随行した二度目のフランス出張は、薩摩の謀略にあって散々な目にあった。私の薩摩嫌いはここに始まる。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩に対する怒り>
薩長に対して徹底抗戦すれば、日本が列強の植民地になる。そんなことが分っているのに、なぜそれを主張したのか。それを明かそう。従來"開国"を主張してきた。もちろん"尊皇開国"である。しかるにいつの間にか"蔑皇開国"にすり替えられてしまった。すり替えたのは、薩長である。とくに薩摩だ。それで怒った。怒った結果が薩長に対する徹底抗戦だった。

田邉太一はつぶやく。
<晩年の態度の理由>
薩長のやり方、とくに薩摩のやり方に対して憤慨していた私にとって、徹底抗戦は"時の勢い"だった。感情的なものだった。しかし感情的になったことを明治になって深く反省した。だから薩長政府に出仕した後でも、吾不閑焉(吾関せずえん)の態度をとった。退官後、福地源一郎と共に吉原遊びにふけり、身代を潰した。自ら恥じるところもあったからである。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩への怒りがつづく>
大久保等薩摩のやり方は卑劣である。天皇を欺瞞して東京へ遷都した。最初はちょっと行幸するということだったが、行幸から未だに京都へお帰りにならない。現に京都の人は天皇が御戻りになることを心待ちにしている。薩摩の大久保が京都市民を欺瞞した。桓武天皇以来、1100年も天皇の御座所であった"みやつところ"(都)を江戸に移し申しあげて東の京とした。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-8)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<トップが御殿様ではだめだ>
幕府上層部は、石高5~6万石以上の親藩の藩主が多かった。これを補佐する幕臣の中にも地球の上の日本であることを認識できる士がいなかった。これは幕臣だけではなかった。各藩の藩士も同様だった。260年間も鎖国によって外国の事情が分からなかった。長州の吉田松陰でさえ外国事情を知りたくてペリー艦隊に乗り込んで密航しようとしたではないか。拙劣である。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-7)

前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
<大東亜戦争への突入>
台湾、朝鮮半島、満州の権益、樺太半分、千島列島までがわが国の領土だった。これに第一次大戦で得た太平洋の信託統治権を加えると、地球面積の約10分の1が日本のものだった。モンゴル帝国にも勝る大きさだった。これを薩長軍は、幕府時代の姿にもどしてしまった。日清日露戦争の成果は無に帰した。「滅びる」といった"三四郎"に出る広田先生の予言通りだ。

田邉太一はつぶやく。
<下級武士はハングリーだった>
幕末期において下層武士の教育レベルが上層レベルの教育レベルを上回っていた。これは、幕府に限らない。諸藩においても同様だった。現に武力革命を成し遂げた薩長においても同様なことが言える。家格の低い家に生まれた武士たち、特に長男以外は苦しい生活の中でハングリーになっていた為であろう。幕臣旗本次男の私も御他聞に洩れず、ハングリーだった。

田邉太一はつぶやく。
<世の常>
上級階層の中の下部に位置する人がいつも世の中を覆す。教育程度が高くてハングリーだからだ。上部に位置する人は、満ち足りて努力する必要ない。典型的には戦国時代の下克上であり、藤原貴族(公家)に対する、平氏/源氏(武家。室町時代の応仁の乱も。明治武力革命も同様である。幕府も各藩も上層部がだめだったが、下層部ががんばった。世の常である。

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階層社会の上下シャッフルの常

田邉太一は更につぶやく。
<人材がいなかった>
幕府上層部にも、小笠原、阿部(正外)、松前などの有為の人材がいたのだ。繰り返して惜しむ。阿部正弘が開国と決めてペリーを迎えていたらよかったのだ。阿部正弘が朝廷に対して「どういたしましょうか」と伺いを立てたことが幕府凋落のスタートだった。従來のルールを破ることの意味を認識していなかった。家康以來外様大名に意見を聞くことはなかったのだ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-6)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<歴史は繰離返す>
"関が原"や"大阪冬夏"では、内戦をしている余裕があった。当時の外国ポルトガルとスペインは、日本を武力攻略する力がなかった。と、言うよりも。日本の武力が勝っていたのだ。当時、全世界の鉄砲の1/3がわが国に存在していた。日本刀製造で培った製鉄技術がそれを支えたのだ。遠路はるばる帆船で航海してきて攻撃できるような国ではなかった。内戦できた。


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明治武力革命は、ヒエラルキー社会のシャッフル(階層社会の上下入れ替え)

田邉太一はつぶやく。
<家格の低い幕臣の高い教育レベル>
幕府旗本の上層部の武士は、私のように長崎海軍伝習所に入所して外国事情に接することはなかった。だからやれもしない鎖国攘夷を暢(のん)気に唱えた。しかし実務をこなす幕府外国奉行所はよくやった。繰り返すが、北海道を守った。対馬も沖縄も守った。小笠原もまもった。本土が外国の植民地になることを防いだ。これは下部組織がしっかりしていたお蔭だ。

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大日本帝国陸海軍は、薩長革命軍のDNAを継承。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
<日露戦争の勝利は当然>
繰り返す。薩長政府は軍事政権だった。戦争のプロだ。故に西南戦争、日清戦争、日露戦争に勝利できた。戦争は常に訓練している側が強い。最善の訓練は実戦だ。この意味で日露戦争までの勝利は必然性がある。しかしその後の対処が悪かった。アメリカに愛想をつかされ、親日英国までも敵にした。戦争のプロなら勝って兜の緒をしめよ。調子にのってはだめだ。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に嘆いてつぶやく。
<大東亜戦争への突入>
薩長は自分たちの軍隊を天皇直属に据えた。その結果、後の515事件や、226事件を誘発し、挙句の果てに大東亜戦争に突入した。日清日露戦争の勝利は、薩長軍の勝利であったことを認めるが、その勝利が無に帰した。樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾を失い、満州にあった南満州鉄道の利権をうしなった。日清日露戦争の勝利が完全に帳消し。徳川時代に戻ってしまった。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-5)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<明治の政治家の本質>
生野の挙兵で思いだした。甥田邉朔郎の岳父、北垣国道は若い頃、郷士"北垣普太郎"と言った。大和(天誅組)の挙兵に呼応して幕府「生野の銀山」を襲撃した。近隣の農民を組織し、福岡藩士平野国臣と組んで長州に落ち延びていた七卿落ちのひとり、沢宣嘉を長州まで迎えに行って生野で擁立し、襲撃したものだ。後の内務次官であるが、これが長州の政治家だ。

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薩長の天皇私物化への非難

田邉太一はつぶやく。
<薩長による天皇の私的利用>
徳川慶喜が尊皇精神を発揮して国家のために大政奉還した。しかし薩長は自分たちのために尊皇と称して天皇を私物化した。平安時代の藤原氏による天皇私物化にも似ている。天智天皇を助けて大化の改新と称する武力クーデターによって政権をとった藤原氏が、天皇家と深い関わりを形成して、平安時代に天皇家を私物化した。これと明治の薩長政府はよく似ているのだ。

田邉太一は更につぶやく。
<薩長による天皇の私的利用(2)>
生野の挙兵→蛤御門の戦い→長州戦争(一次~二次)→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と続く一連の戦争は、東軍対西軍の戦争であり、戦国時代の再現だった。関が原の戦いにおいては、総大将毛利を頂く西軍が負けたが、この西軍が270年振りに勝利した。勝利の結果、天皇を東京へ拉致し奉って私物化し、自分たちの中央集権国家に利用した。

田邉太一は更につぶやく。
<薩長の天皇制の利用を怒る>
鎌倉時代から続く政治に直接関与しない天皇制は、日本独特の優れた政権交代システムだ。薩長はこれを破壊してしまった。薩長は自分達の権威を守るために天皇を江戸に拉致申し上げたのだ。しかも拉致とは言わず、自らの御意思で東京へおいでになったというシナリオを捏造した。自分達を尊皇開国だったと称し、幕府を蔑皇鎖国であったと言ってすり替えた。

次のブログにつづく。

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