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田邉(辺)太一 子孫 田邉康雄 幕末外交の記事一覧

田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-23)

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自分の持論に関して田邉太一はつぶやく。
<もうひとつの幕末>
ペリー来航はオランダ人を通じて一年前から分かっていた。だから国是を開国と定め、そのための港湾の準備をし、ペリーが来たときにそのことを通告すればそれで何事もなかった。そうすれば貿易で現金を稼ぎ、小栗上野介の路線にしたがって軍備増強して別の形の幕末があった。阿部正弘が無策のまま朝廷に伺いを立てたものだから、薩長に付け込まれた。

<横浜開港で現金稼ぎ>
勘定奉行小栗上野介は、現金がないと最新式武器の購入ができないことをよく知っていた。だから阿部正弘が幕府直轄地に限って"開港"と国是を定めて諸藩に通告すれば、それでよかった。開港地に貿易市場を開いて税金を徴収し、幕府自らも貿易して現金を稼ぎ、江戸城の金庫を豊かにする。これを背景にして英国/フランスから武器を購入することができた。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-22)

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徳川幕府時代の高レベルな知的財産に関して田邉太一はつぶやく。
<幕府の豊富な外国情報>
ペリー再来航の際、吉田松陰が密航を企てた。拙劣な行動である。外国事情を知りたければ幕府学問所に来ればよいのに。長州藩には外国事情は入っていなかった。10年後に長州ファイブとかいって伊藤博文等が英国に密航して経験を積んでいたが、幕府の情報には太刀打ちできなかったのだ。吉田松陰の事件が当時の各藩藩士のレベルを物語る。幕府の情報量は豊富だった。

<徳川家兵学校>
幕府陸軍のレベルの高さは、幕府が静岡藩70万石に下った際に沼津に設立した「徳川家兵学校」で証明できる。兵学校の生徒が先生格「お貸し人」として各藩から引っ張りダコだった。薩摩にも大勢貸したが、長州からは依頼はなかった。幕府と最初に戦った長州人の自尊心と意地っ張り振りが伺われる。あるいは大村益次郎率いる長州軍は本当にレベルが高かったか。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-21)

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兄孫次郎に関して田邉太一はつぶやく。
<洋式銃砲の先駆者>
長崎で育った高島秋帆は西洋の炸裂弾元込め式大砲"と"椎の実型鉄砲玉薬きょう式銃"が日本の"丸型砲弾先こめ式火縄砲/銃"よりはるかに大きな破壊力/殺傷力をもつことを知って愕然とした。そこで幕府に建議し、採用されて"徳丸が原"の実射演習を披露した。ペリー来航の12年も以前のことだった。秋帆の弟子兄孫次郎も演習に指揮官として参加した。

<先駆者を潰す愚かな幕府>
高島秋帆は幕府の中に巣くっていた因習姑息の輩の讒訴に会い、1842(天保14)年に長崎で逮捕/家名断絶となった。秋帆の弟子兄田邉孫次郎は、秋帆の志を継いで講武所を設立し、西洋砲術教授となった。惜しいことには、江戸に流行した麻疹に罹病して1863(文久3)年に死亡した。生きていたら薩長を凌駕する強力陸軍を育成したであろう。甥朔郎が幼くして家督相続した。

<幕府には現金がなかった>
幕府には大砲や鉄砲を買う現金がなかった。現金とは銀貨と金貨である。流通はしているが通過供給量が十分ではなかった。米本位制を守ってきた幕府に付けが回ってきたのだ。だから勘定奉行の反対に会って讒訴された。幕府にも悪人がいるものだ。一方、薩長は現金をもっていた。薩摩は密貿易、長州は関門海峡の通行料、肥前は陶磁器、土佐は樟脳によって稼いだ。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-20)

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ペリー来航と地震襲来に関して田邉太一はつぶやく。
<安政一回目と二回目の大地震>
安政年間に三度も江戸近辺に大地震があった。これは痛かった。第一回目は、1853年(嘉永6)年3月11日の小田原地震(M6.7、死者24名)。ペリーが浦賀に来航したのは、約4ケ月後の7月8日だった。二回目は一年後の1854年(安政1)年12月23日の安政東海地震(M8.4、死者2000~3000名)だった。下田に来航していたロシア軍艦ディアナが大破し、後に沈没した。

<安政三回目の大地震>
三回目は1855年(安政2)年11月11日の江戸大地震(M6.9、死者2000~3000名)。米国総領事ハリスが来日する前年だった。ペリーと日米和親条約を結んだ翌年、ハリスが下田に来る前年だった。この江戸直下型安政大地震は幕府にとって痛かった。太平の眠りを覚ましたのは、ペリーではなくて大地震だった。前後三回の大地震によって幕府の力が削減された。

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ペリー来航と地震襲来に関して田邉太一はつぶやく。
<安政一回目と二回目の大地震>
安政年間に三度も江戸近辺に大地震があった。これは痛かった。第一回目は、1853年(嘉永6)年3月11日の小田原地震(M6.7、死者24名)。ペリーが浦賀に来航したのは、約4ケ月後の7月8日だった。二回目は一年後の1854年(安政1)年12月23日の安政東海地震(M8.4、死者2000~3000名)だった。下田に来航していたロシア軍艦ディアナが大破し、後に沈没した。

<安政三回目の大地震>
三回目は1855年(安政2)年11月11日の江戸大地震(M6.9、死者2000~3000名)。米国総領事ハリスが来日する前年だった。ペリーと日米和親条約を結んだ翌年、ハリスが下田に来る前年だった。この江戸直下型安政大地震は幕府にとって痛かった。太平の眠りを覚ましたのは、ペリーではなくて大地震だった。前後三回の大地震によって幕府の力が削減された。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-18)

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薩摩に対する根強い不信感に関して田邉太一はつぶやく。
<薩摩の卑劣なやり方>
徳川昭武のパリ万国博使節に随行した。その際、薩摩は卑劣にも"丸に十字"の薩摩紋を掲げ、薩摩政府は幕府とは別であるとして欺瞞した。組頭の私は窮地に立った。伏見鳥羽の戦いでは偽の錦旗で徳川慶喜を欺瞞した。勝手なことをやった生麦事件で幕府に大迷惑をかけた。やり方がフェアーでない。長州のやり方は単純で許容できるが、薩摩は許せない。

<慶喜はよく我慢した>
徳川慶喜はよくやった。錦旗に礼をつくして江戸へ退散した。そして天皇に対して恭順を貫いた。もしも強力海軍を有する幕府が江戸城を死守する手にでたら、フランスとイギリスの代理戦争になった。そして本州は両国の殖民地に二分され、北海道はロシアが取った。沖縄と小笠原はアメリカが取った。これを防いだ徳川慶喜はノーベル平和賞の第一号受賞に値する。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-17)

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小栗上野介に関して田邉太一はつぶやく。
<勝海舟対小栗上野介>
江戸城において勝海舟と小栗上野介の間で無血開城の是非について徳川慶喜の前で大論戦が行なわれた。私も論戦に加わることを求められ、そのために目付に補された。厄介の身から将軍の前で論戦できる身分になったのだ。しかし感慨にふけっている余裕はなかった。私は小栗側について徹底抗戦を主張した。薩長が嫌いだったから。しかし最後は慶喜が断を下した。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-16)

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娘龍子に関して田邉太一はつぶやく。
<三宅花圃>
娘龍子が朔郎とその姉鑑子をモデルにして1888(明治21)年に「薮の鶯」を書いて明治の女性小説家の先駆者三宅花圃となった。薩長政府から外されて、福地源一郎等と鬱憤晴らしで遊興費がかさみ家計が苦しかった際、長男次郎一が死んだ。葬式代を稼ぐために龍子が頑張った。坪内逍遥の当世書生かたぎを見て、このくらいなら自分も書けると思ったそうだ。

<樋口一葉>
樋口一葉が娘龍子と同時期に萩の家にいた。龍子の薮の鶯をみて「このくらいなら私も書ける」といって書いた小説が一葉の処女作「闇桜」だ。娘もよいことをした。当時、鹿鳴館時代であり、舞踏会へしばしば行っていた。父親の私は元老院議官に外されて不満だったが、龍子が鹿鳴館では元老院議官の娘として立派にお役に立っていたのは嬉しい。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-15)

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私は長崎から江戸に戻り林大学頭の周旋によって外国奉行所に職を得た。ペリー来航の直後だったので仕事は山ほどあった。最初は、記録を作成したり、原案を書き写したりの単純な仕事だったが、次第に自分の考えで進めるような仕事をもらった。そしてスピード出世して父石庵と同額俸禄200石取りの組頭になった。厄介の身から晴れて幕臣である。徳川には恩義がある。

<国益優先>
昌平坂学問所で得た世界情勢に関する知識と長崎海軍伝習所で得た欧州の技術知識が役に立った。鎖国を続けていたら、欧米列強の植民地にされることは火を見るよりも明らかだった。薩英戦争と長州四カ国戦争は、これらの処置を幕府が誤ると清国のアヘン戦争の二の舞となるところだった。尊王攘夷を振りかざす薩長を抑えて列強と上手に交渉したのは幕府だった。

<二度の遣欧使節 ⇒ 二度とも譴責>
私は得た地位の保身には走らず、自分のことよりも国家のことを考え、植民地にされないことだけを考えた。代々儒学を修めてきた家に生まれたものとしては当然の倫理であった。国益を考えて行動した結果、2度も職を解かれた。しかし短期間で復職をゆるされた。私利私欲で動いたのではなくて、国家のために思うところがあって動いたので評価されたと思う。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-14)

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政権交代システムとしての天皇制に関して田邉太一はつぶやく。
<天皇制の悪用>
薩摩は汚い手をつかう。岩倉を抱きこんで偽の錦旗を立てた。多くの国民が敬う、ユニークな世界に誇る天皇を悪用した。こんな政府に協力することは嫌で沼津に引き込んで、徳川家兵学校教授をしていたが、何度も使者がくるので、折れて外務省に出所した。生活のためという意味が大きい。遣米欧使節団に協力したが、岩倉や大久保と同じ船に乗ることは嫌だった。

<薩摩による天皇家の利用>
薩摩は天皇を利用した。島津久光の子、薩摩藩主島津忠義の娘俔子を、陸軍元帥久邇宮邦彦王に嫁がせ、その子良子を大正天皇の子、皇太子(後の昭和天皇)に嫁がせた。鎌倉時代から名目的地位にとどまっておられた天皇家を政治に担ぎだして利用した。天皇家を自分達の悪行の隠れ蓑とした。今後の世の中において天皇家をさらに悪用する者がでないこと切に祈る。

<阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆く>
薩長軍の伝統を引き継ぐ昭和の軍閥も天皇制を悪用した。統帥権などと称し、陸海軍は天皇直属であって、内閣の指示を受けないなどと勝手な理屈をつくった。兵隊に対して「上官の命令は天皇陛下の命令である」と嘯いて多くの将兵に無理な作戦を強要して悲惨な死に追いやった。戦闘で死ぬならまだしも、無理な計画の下で餓死した将兵が少なくとも30万人は存在した。

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田辺(田邉)太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(2-13)

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薩長が無視した徳川時代の遺産に関して田邉太一はつぶやく。
<徳川時代は 闇ではなかった>
明治の近代化の基礎は、すでに徳川時代にできていた。明治の文明開化は幕府265年間に蓄積された強大な土台の上に積み重ねられたもの。薩長政府が自分達は欧米の知識を導入して成功させたと主張しているが、それは手柄の横取りだ。歴史は常に勝者が描く。明治維新も非例外。私は地道に学問の積み上げをやってきた幕臣学者家の子孫の立場からこのように主張する。

<ユニークな天皇制>
徳川時代は、すでに世界有数の科学技術保有国だった。これが他国に例を見ないユニークな天皇制の下で平和裡に明治時代に継承され、薩長が文明開化と称する急速な発展を遂げた。天皇制のお陰である。しかし薩長藩閥政府はそのことを隠蔽した。今回は結果が悪くはなかったから許容範囲に入るが、将来天皇制を私利私欲に利用して悪い結果を人がでることを危惧する。

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京都の命の水、琵琶湖疏水に関して田邉太一はつぶやく
<榎本/大鳥/荒井と朔郎>
榎本、大鳥、荒井の三人は甥朔郎の面倒をよく見てくれた。大鳥は工部大学校長として。荒井は大鳥の朔郎に対する卒論テーマの相談に乗ってくれた。榎本は文部大臣のとき朔郎の結婚媒酌人となってくれた。びわ湖疏水はこの三人が朔郎にやらせたようなものだった。幕府時代の縁が世紀の大土木事業を推進したとも言える。親戚縁者の絆だ。

<長州軍北垣国道>
甥朔郎の嫁静子は鳥取藩士北垣国道の長女だ。国道は1863(文久3)年、農兵を募って生野代官所を武力襲撃し、明治維新戦争の引き金を引いた。戊辰戦争では、長州旗下鳥取藩八番隊長として実戦に参加し、幕府を攻撃した。幕臣の朔郎にとっては憎い敵である。しかし維新戦争後20年余りにして早くも仲直りした。会津藩と長州藩は平成になって初めて仲直りしたのに。

<びわ湖疏水の立案推進者北垣国道>
甥朔郎が卒業論文に書いた琵琶湖疏水を、朔郎がそのまま工事推進したかのように伝えられているが気恥ずかしくて面映い。長州閥北垣国道が京都府知事時代にやったものだ。しかし北垣は自分の手柄を娘婿朔郎に譲った。北垣国道は、徳川幕府のテクノクラート、榎本、大鳥、荒井、田辺のお陰で男爵、正二位に出世したことを恩義に感じてくれたものと思う。

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<国力は工学>
お隣の清国は、外国から軍艦/大砲を購入して「国力」をつけようとした。これに対して薩長政府は、軍艦/大砲をつくるエンジニアを育成しようとした。薩長にしては慧眼である。伊藤はよくやった。産業革命の重工業の中心地、スコットランドのグラスゴー大学から新進気鋭のエンジニアを招聘して工部大学校を創設した。我が国エンジニア教育の原点である。

<甥田邉朔郎の成功>
私は甥田邉朔郎にエンジニアになることを勧め、朔郎は工部大学校へ進学した。卒業後直ちに京都びわ湖疏水工事を担当して見事完成させた。日露開戦前にロシア軍の参謀アバダスチはこれを見て「日本は工学が進んでいる。あなどってはいけない」と本国に打電した。日露戦争は工学の勝利である。電信用GS蓄電池、B&S距離測定器、伊集院信管、下瀬火薬などで。

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岩倉遣米欧使節団の成果に関して田邉太一はつぶやく
<使節団の副産物>
岩倉遣米欧使節団は"主目的"に対して何ら成果はなかった。当たり前だ。しかし「国力がないと対等な話し合いはできない」。このことを薩長政府が知ったことは、副産物として大きな成果だった。さらに「国力とは工学だ」と理解したことも大きな成果だった。伊藤がエンジニアの育成に着手したことは大成果だった。甥朔郎はこの枠組みに乗って家名再興に成功した。

<使節団の立派な大変身>
岩倉具視が右大臣を捨てて未知数の日本鉄道の社長になろうと言い出したこと、並びに伊藤博文が他の要職を捨て工部卿に就いたのは立派だ。一行は岩倉が自慢の髷をきるなど旅行中に変身した。五稜郭の戦いで薩長軍に投降した大鳥圭介は「我を恥じ白骨を青沙に曝す」といっていたが、使節団に加わった後に一念奮起して工部大学校の校長を引受けた。

<西洋の技術事情>
私は長崎海軍伝習所においてオランダ人教師から航海術、造船学、機関学、算術等を正式に習ったエンジニアである。加うるに2度パリへ公務出張し、フランス軍艦や商船、鉄道列車に乗った。だから西洋技術事情には詳しい。長州ファイブの伊藤はそうではなかったが、岩倉、大久保は驚いた。素直に驚いたところが感心である。これにより、使節団の新使命は決まった。

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<明治薩長政府の外国事務所>
遠く西から江戸へ攻めあがってきた薩長政府は、1869(明治2)年に外務省をつくったが、自力でこれを運営できるわけがない。第一、それまでに外国と交わした約束がある。だから外務省は、幕府外国奉行所の事務をそっくり引き継がざるを得なかった。そしてその事務を担当していた幕府の人材を必要とした。幕府外交実務のトップ、生き字引の私も必要とされた。

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