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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-11)

前ブログからつづく。

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個人的満足

田邉太一はつぶやく。
<昌平坂学問所で教えてもらった倫理観>
私は"責に任じて"自分のことよりも、国家のことを考えて行動した。これは私の倫理観だった。この倫理観は、昌平坂学問所において儒学者の父、田邉石庵から教えてもらったものだ。責任を果たすとは倫理観に立って自分の仕事をすることだ。幕府時代の上層部に上層部としての責任を果たす気概のある人物が少なかったことは残念だ。だから薩長にやられたのだ。

田邉太一はつぶやく。
<長州に対する個人的エール>
薩摩は嫌いだが、長州は嫌いではない。長州軍の鳥取藩第8番隊長だった北垣国道(後の内務次官、枢密顧問官)が実の娘を甥田邉朔郎にもらってくれといった際に反対しなかった。長州藩騎兵隊の隊員、片山東熊(後の国宝迎賓館設計者)が朔郎の姉をもらってくれと言った際も反対しなかった。長州の人は単純でわかりやすい。決して策略を弄するようなことはなかったから。

田邉太一は更につぶやく。
<長州へのエール、つづく>
甥の朔郎は、長州伊藤博文の作った枠組みの中で生きさせてもらった。岩倉遣米欧の副使の一人、伊藤の働きによって産業革命の重工業発祥の地、スコットランドから数多くの教師を招聘して工部大学校(東大工学部前身)を設立し、学長に幕府時代の私の仲間、大鳥圭介を嵌めてくれた。大鳥は琵琶湖疏水推進者で長州閥の北垣国道に朔郎を推薦してくれた。長州はよい。

田邉太一は更につぶやく。
<学者田邉家の中継ぎを果たしたことへの満足>
薩長の世になったにもかかわらず、没落した幕府旗本田邉家を再興させたことが満足だ。父親代わりになって育てた田邉朔郎が土木で大成功した。朔郎の姉を嫁にだした片山東熊も建築で、私の娘三宅花圃も小説で、その夫、三宅雪嶺も評論で大成功した。老後は、娘花圃のところで好きな漢文の釈読をして静かに暮らそう。外務省退官後の吉原通いを忘れて。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-10)

前ブログからつづく。

田邉太一はつぶやく。
<薩長の廃仏毀釈を怒る>
天皇の利用が昂じて、神道を尊ぶがあまり、仏教を弾圧した。神道を尊ぶことはよい。しかし仏教を廃する必要はない。特に薩摩がひどい。徹底的に寺を破壊した。伊勢神宮のお膝元、三重県もひどかった。古来の土着宗教を仏教で補強して国の形ができていたのだ。それを壊した。寺家、公家、武家の内、寺家を抹殺した。廃仏毀釈である。その社会安定に対する罪は大きい。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩を許せなかった自分の限界>
従来の姿勢と相反して徹底抗戦を主張した自分を許せなかった。人前に出ることが恥ずかしかった。どの面下げて国家のために働くことができるかという思いだった。それに加えて、薩摩が大嫌いだった。この二つによって、請われて明治政府に外務省へ出仕した後も、「吾不閑焉(吾関せずえん)」と傍観者的態度をとらざるを得なかった。それが自分の限界であった。

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江戸城無血開場に反対した理由。

田邉太一はつぶやく。
<なぜ徹底抗戦を主張したか?>
幕府時代には、職を解かれることを覚悟して、(国を思って)上司に開国を直言した。実際そうやって職をとかれた。こんなに積極的に動いた私が明治になってから「吾不閑焉の態度をとったことをいぶかしく思う人があるだろう。自分でもよく分からないところがある。榎本、大鳥、荒井が誠心誠意薩長政府に協力したのに対して対照的だった。しかしそれしか出来なかった。

田邉太一は更につぶやく。
<無血開城してよかった>
私は心ならずも小栗忠順の路線に沿って、榎本、大鳥、荒井とともに"徹底抗戦"を主張した。徹底抗戦すれば、日本を二分した内戦になる。フランスが支援する東日本対イギリスが支援する西日本だ。戦いが終了した時点で日本民衆は疲弊し、東はフランス植民地、そして西はイギリス植民地、北海道はロシア領、そして後年朝鮮半島もロシア領となった筈だ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談(史)から(4-9)

前ブログからつづく。

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長州は許すが薩摩は許せない太一。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩にはひどい目に会った>
薩長が投げかける無理難題を躱(かわ)すため、私はフランスへ無為の出張をさせられた。外国事情をつぶさに見させてもらったことは有難かったが、外国に拒否されることが明らかに分っている申し入れをわざわざ外国にまでいかされたことはつらかった。徳川昭武に随行した二度目のフランス出張は、薩摩の謀略にあって散々な目にあった。私の薩摩嫌いはここに始まる。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩に対する怒り>
薩長に対して徹底抗戦すれば、日本が列強の植民地になる。そんなことが分っているのに、なぜそれを主張したのか。それを明かそう。従來"開国"を主張してきた。もちろん"尊皇開国"である。しかるにいつの間にか"蔑皇開国"にすり替えられてしまった。すり替えたのは、薩長である。とくに薩摩だ。それで怒った。怒った結果が薩長に対する徹底抗戦だった。

田邉太一はつぶやく。
<晩年の態度の理由>
薩長のやり方、とくに薩摩のやり方に対して憤慨していた私にとって、徹底抗戦は"時の勢い"だった。感情的なものだった。しかし感情的になったことを明治になって深く反省した。だから薩長政府に出仕した後でも、吾不閑焉(吾関せずえん)の態度をとった。退官後、福地源一郎と共に吉原遊びにふけり、身代を潰した。自ら恥じるところもあったからである。

田邉太一はつぶやく。
<薩摩への怒りがつづく>
大久保等薩摩のやり方は卑劣である。天皇を欺瞞して東京へ遷都した。最初はちょっと行幸するということだったが、行幸から未だに京都へお帰りにならない。現に京都の人は天皇が御戻りになることを心待ちにしている。薩摩の大久保が京都市民を欺瞞した。桓武天皇以来、1100年も天皇の御座所であった"みやつところ"(都)を江戸に移し申しあげて東の京とした。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-8)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<トップが御殿様ではだめだ>
幕府上層部は、石高5~6万石以上の親藩の藩主が多かった。これを補佐する幕臣の中にも地球の上の日本であることを認識できる士がいなかった。これは幕臣だけではなかった。各藩の藩士も同様だった。260年間も鎖国によって外国の事情が分からなかった。長州の吉田松陰でさえ外国事情を知りたくてペリー艦隊に乗り込んで密航しようとしたではないか。拙劣である。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-7)

前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
<大東亜戦争への突入>
台湾、朝鮮半島、満州の権益、樺太半分、千島列島までがわが国の領土だった。これに第一次大戦で得た太平洋の信託統治権を加えると、地球面積の約10分の1が日本のものだった。モンゴル帝国にも勝る大きさだった。これを薩長軍は、幕府時代の姿にもどしてしまった。日清日露戦争の成果は無に帰した。「滅びる」といった"三四郎"に出る広田先生の予言通りだ。

田邉太一はつぶやく。
<下級武士はハングリーだった>
幕末期において下層武士の教育レベルが上層レベルの教育レベルを上回っていた。これは、幕府に限らない。諸藩においても同様だった。現に武力革命を成し遂げた薩長においても同様なことが言える。家格の低い家に生まれた武士たち、特に長男以外は苦しい生活の中でハングリーになっていた為であろう。幕臣旗本次男の私も御他聞に洩れず、ハングリーだった。

田邉太一はつぶやく。
<世の常>
上級階層の中の下部に位置する人がいつも世の中を覆す。教育程度が高くてハングリーだからだ。上部に位置する人は、満ち足りて努力する必要ない。典型的には戦国時代の下克上であり、藤原貴族(公家)に対する、平氏/源氏(武家。室町時代の応仁の乱も。明治武力革命も同様である。幕府も各藩も上層部がだめだったが、下層部ががんばった。世の常である。

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階層社会の上下シャッフルの常

田邉太一は更につぶやく。
<人材がいなかった>
幕府上層部にも、小笠原、阿部(正外)、松前などの有為の人材がいたのだ。繰り返して惜しむ。阿部正弘が開国と決めてペリーを迎えていたらよかったのだ。阿部正弘が朝廷に対して「どういたしましょうか」と伺いを立てたことが幕府凋落のスタートだった。従來のルールを破ることの意味を認識していなかった。家康以來外様大名に意見を聞くことはなかったのだ。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-6)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<歴史は繰離返す>
"関が原"や"大阪冬夏"では、内戦をしている余裕があった。当時の外国ポルトガルとスペインは、日本を武力攻略する力がなかった。と、言うよりも。日本の武力が勝っていたのだ。当時、全世界の鉄砲の1/3がわが国に存在していた。日本刀製造で培った製鉄技術がそれを支えたのだ。遠路はるばる帆船で航海してきて攻撃できるような国ではなかった。内戦できた。


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明治武力革命は、ヒエラルキー社会のシャッフル(階層社会の上下入れ替え)

田邉太一はつぶやく。
<家格の低い幕臣の高い教育レベル>
幕府旗本の上層部の武士は、私のように長崎海軍伝習所に入所して外国事情に接することはなかった。だからやれもしない鎖国攘夷を暢(のん)気に唱えた。しかし実務をこなす幕府外国奉行所はよくやった。繰り返すが、北海道を守った。対馬も沖縄も守った。小笠原もまもった。本土が外国の植民地になることを防いだ。これは下部組織がしっかりしていたお蔭だ。

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大日本帝国陸海軍は、薩長革命軍のDNAを継承。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
<日露戦争の勝利は当然>
繰り返す。薩長政府は軍事政権だった。戦争のプロだ。故に西南戦争、日清戦争、日露戦争に勝利できた。戦争は常に訓練している側が強い。最善の訓練は実戦だ。この意味で日露戦争までの勝利は必然性がある。しかしその後の対処が悪かった。アメリカに愛想をつかされ、親日英国までも敵にした。戦争のプロなら勝って兜の緒をしめよ。調子にのってはだめだ。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に嘆いてつぶやく。
<大東亜戦争への突入>
薩長は自分たちの軍隊を天皇直属に据えた。その結果、後の515事件や、226事件を誘発し、挙句の果てに大東亜戦争に突入した。日清日露戦争の勝利は、薩長軍の勝利であったことを認めるが、その勝利が無に帰した。樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾を失い、満州にあった南満州鉄道の利権をうしなった。日清日露戦争の勝利が完全に帳消し。徳川時代に戻ってしまった。

次のブログにつづく。

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★ 生涯現役エンジニアになろう!!(10回目)【3月10日(土)】13:00~17:00 於新技術開発センター研修室(東京メトロ半蔵門駅徒歩2分)

来る2012年3月10日(土)13:00~17:00、新技術開発センター主催により、第10回「生涯現役エンジニアになろう!!」セミナーを開催します。私田邉康雄が講師を引き受けます。受講料:25,000円(税込)。

―― このセミナーは、弊社の技術者研修「生涯現役エンジニアの道」の一環です。エンジニアに対する支援の一つとお考えください。
 
このセミナーの第一回(2009年3月)を受講した人の中から有志が出現。そして「引き続いて指導してほしい」と請われました。これを快諾した結果、有志が代表幹事となって「生涯現役エンジニア塾」が誕生しました。現在約40名の塾生がいます。過去9回の塾を開催し、来る2012年1月28日(土)に第10回目が開催されます。

人生尽きるまで技術者として活躍し、もと在籍していた企業の後輩から「先生」と尊敬されて人生をまっとうする道などを教えます。

内容を確認されたい方は、講師田邉康雄へ直接お問い合わせください。
メール:tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp
電話:03-3776-2495
FAX:03-5742-7695

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★ISOムダ取りの決定版 システム自動化と自己宣言【3月8 日10:00~17:00、於東京メトロ半蔵門駅徒歩2分新技術開発センター研修室、講師は弊社代表田邉康雄

このセミナーに御興味のある方は田邉康雄へ御連絡ください。

電話: 03-3776-2495
電子メール: tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

以下、新技術開発センターのパンフに記載される案内文をそのまま掲載します。

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マネジメントシステムのISOがわが国に導入されてからすでに20年余が経過し、事務局3代目時代を迎えました。今、経営者は事務局に対して"新機軸"の打ち出しをもとめています。なぜなら、現下の不況下において企業のISO社内コスト負担が大きいからです。経営者から御下問をうけた事務局の方は悩んでおられます。

しかし、このセミナーを受講すると新しい方向が見えてきます。究極の姿は、"専任事務局不要"の運営により社内コストを大幅に削減する道です。そのためには、システムの自動化が不可欠です。その際、自社の情報処理技術を活用してシステム自動化を自力で行う道はありますが、コンピューターの知識がいくらあってもダメです。なぜんら、ISOマネジメントシステムに関する深い理解が必要ですから。

新技術開発センターは、従来から製造業の"ムダ取り"に関する様々なセミナーをやってきました。今回は、製造業の"ISOムダ取り"に正面から取り組みます。そのために、10年以上も前に自己宣言を提唱し、そのための自動化ソフトを開発したゼッタテクノロジーから講師を迎えます。そしてソフトの実績を紹介してもらいます。このソフトを使用したシステムは、認証審査において不適合が発生することは皆無であるという実績があります。したがって事務局は、認証登録継続に関して何の不安もなく独自の"ムダ取り"に取り組むことができます。

一方、スタートとして"ムダ取り"に取り組んでいただきますが、"ムダ取り"によって自由になった従業員の余力を企業利益を確保するための「コストダウン(利益向上)」と「リスク低減(損失防止)」に振り向けていただきます。これに関しては田邉康雄氏を講師に迎えます。氏は、コンサルティング的内部監査のベテランです。

内部監査の場において瞬時に問題点を発見し、カイゼン提案をします。これは、IRCAがスーパーオーディターと呼称しているものに同じです。また氏の指導を受けて内部監査をすると、IRCA審査員、主任審査員への道が開けます。さらに氏は、大企業のISOマネジメントシステムの自己宣言を指導して成功させた経験があります。さらにISOMSを完全統合して、コンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスに活用する指導のベテランです。

今回のセミナーは、新技術開発センターの新サービス、「システム自動化によるISOムダ取り支援」、「適合自己宣言によるムダ取り支援」、「ムダ取りによってフリーになった余力によるコストダウン(利益向上)支援」、「同リスク低減(損失防止)支援」、「同コンプライアンス支援」、「同内部統制支援」、「同コーポレートガバナンス支援」を紹介する意味があります。

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以上、新技術開発センターのパンフに記載される予定の内容を先取りして書きました。

★ISOムダ取りの決定版 システム自動化と自己宣言【3月8 日10:00~17:00、於東京メトロ半蔵門駅徒歩2分新技術開発センター研修室、講師は弊社代表田邉康雄の続きを読む ≫

★生涯現役エンジニア塾 ― 第10回目開催【1月28日午後】場所:JR大森駅徒歩2分Luz大森5階「KTPスター貸会議室」

新技術開発センターによる「生涯現役エンジニアになろう!!」セミナーの受講生は、希望すればアフターサービスを受けるための塾に入ることができます。塾代は、会場設営費を参加者全員で「割り勘」負担する以外は無料です。

今回は、十回目を記念して新技術開発センターが「後押し」をしてくれました。塾の内容は以下の通りです。

1) 各自の進捗状況報告
2) 塾長田邉康雄の講話
3) 新技術開発センター細井社長の講話
4) 懇親会(新技術開発センター負担)

参加資格は、新技術開発センターの「生涯現役エンジニアになろう!!」セミナーの受講経験者に限定されていますが、今回はオブザーバーをお迎えしたいと思います。

すなわち、技術者であり、将来、生涯現役で社会貢献したいと考えており、その方策を模索しておられる方を歓迎したいと思います。

御希望の方は私田邉康雄に御連絡ください。

電話: 03-3776-2495
電子メール: tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

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★国際規格ISO31000リスクマネジメント研究会 ― 第2回目【1月21日】、主催:ベック株式会社、後援:リスクマネジメント協会 場所:JR田町駅2分「女性就業支援センター」


さる9月に大会(参加者:50名)を開き、その中の希望者15名が「リスクマネジメント研究会」を発足させました。会長は私田邉康雄、主催はベック株式会社、そして後援はリスクマネジメント協会です。

―― 今回は発足後の第一回目の研究会を開催します。開催日は2012年1月21日(土)、開催時間は1400~1630です。そして場所は「女性就業支援センター(JR田町徒歩1分)」です。

―― 会員の資格制限はありません。リスクマネジメントに関心があり、かつ、勉強したいと考えておられる方は歓迎します。とくに定年退職後にも年金支給を受けながらリスクマネジメントを支柱のひとつにして社会貢献をしたいと希望される方は歓迎します。電話または電子メールで田邉康雄まで御連絡ください。

03-3776-2495 
tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-5)

前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
<明治の政治家の本質>
生野の挙兵で思いだした。甥田邉朔郎の岳父、北垣国道は若い頃、郷士"北垣普太郎"と言った。大和(天誅組)の挙兵に呼応して幕府「生野の銀山」を襲撃した。近隣の農民を組織し、福岡藩士平野国臣と組んで長州に落ち延びていた七卿落ちのひとり、沢宣嘉を長州まで迎えに行って生野で擁立し、襲撃したものだ。後の内務次官であるが、これが長州の政治家だ。

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薩長の天皇私物化への非難

田邉太一はつぶやく。
<薩長による天皇の私的利用>
徳川慶喜が尊皇精神を発揮して国家のために大政奉還した。しかし薩長は自分たちのために尊皇と称して天皇を私物化した。平安時代の藤原氏による天皇私物化にも似ている。天智天皇を助けて大化の改新と称する武力クーデターによって政権をとった藤原氏が、天皇家と深い関わりを形成して、平安時代に天皇家を私物化した。これと明治の薩長政府はよく似ているのだ。

田邉太一は更につぶやく。
<薩長による天皇の私的利用(2)>
生野の挙兵→蛤御門の戦い→長州戦争(一次~二次)→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と続く一連の戦争は、東軍対西軍の戦争であり、戦国時代の再現だった。関が原の戦いにおいては、総大将毛利を頂く西軍が負けたが、この西軍が270年振りに勝利した。勝利の結果、天皇を東京へ拉致し奉って私物化し、自分たちの中央集権国家に利用した。

田邉太一は更につぶやく。
<薩長の天皇制の利用を怒る>
鎌倉時代から続く政治に直接関与しない天皇制は、日本独特の優れた政権交代システムだ。薩長はこれを破壊してしまった。薩長は自分達の権威を守るために天皇を江戸に拉致申し上げたのだ。しかも拉致とは言わず、自らの御意思で東京へおいでになったというシナリオを捏造した。自分達を尊皇開国だったと称し、幕府を蔑皇鎖国であったと言ってすり替えた。

次のブログにつづく。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-4)

前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
<バルチック艦隊撃滅の勝因>
海軍の大艦巨砲主義は、薩摩の東郷平八郎の老害によるところ大。東郷の初陣は薩英戦争だった。日清日露の海戦を経験して自信過剰だった。日露戦争の勝利は作戦の勝利ではなくて、工学の勝利であることをすっかり忘れていた。B&S社を訪問して「日本海海戦の勝利はあなたたちが製造した距離測定器のおかげ」と演説したではないか。T字戦法で勝ったのではない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から更につぶやく。
<大艦巨砲主義>
大東亜戦争の緒戦において日本は、航行中の英国戦艦プリンスオブウエールズと重巡レパルスを航空機によって撃沈した。これは画期的成果だった。一方、戦艦大和と同武蔵は、航空機による攻撃を受けて戦わずして撃沈された。敵をとられたのだ。大艦巨砲主義を捨てて空母建造作戦に変更していたら、大東亜戦争は別の形になっていた。いや開戦しなかったかも知れない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
<陸軍の精神主義>
長州の伝統を引き継ぐ陸軍もひどい。オーエスタンレー山脈越えポートトモレスビー攻略、ニューギニア戦線はひどい。その後の補給なしの銃剣突撃によるインパール攻略作戦、これら無謀な作戦は、長州の伝統だ。後先を考えずに倒幕戦争の戦端を開いた長州の伝統そのものだった。1864(元治1)年に攘夷の勅状を真に受けて下関で外国船に砲撃開始した長州そのものだ。

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明治維新なる名称を使った薩長の詭弁を突く。

田邉太一はつぶやく。
<薩長の倒幕戦争>
松平直克が政治総裁になった時期は、幕末の動乱期だった。1863(文久3)年8月18日の政変→七卿落ち→生野の挙兵→蛤御門の変→第一次長州征伐→第二次長州征伐→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と繋がる明治武力革命の発端時期に当たっていたのに本人はそれに気がつかず、それを防止できなかった。幕府上層部は何をしていたのか。無能の一言に尽きる。

次のブログにつづく。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書幕末外交談から(4-3)

前ブログからつづく。

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600年振りに成った源頼朝子孫、薩長の復権

田邉太一はつぶやく。
<源頼朝の怨念を薩長が晴らした>

明治の薩長政府は、北条によって鎌倉を乗取られた源頼朝の側近島津と毛利が750年振りに復権したと見れば面白い。頼朝の庶子、島津忠久は北條政子の嫉妬を受けて、僻地薩摩へ左遷された。腹心大江広元の子、毛利季光も僻地長州へ。頼朝の墓に、頼朝に寄り添うように忠久、季光の墓が並んでいるのは実に興味深い。もちろん後の世に島津毛利が建てたものだが。

田邉太一はつぶやく。
<薩長は新貴族を創って自分が貴族になった>
薩長武力革命政府は、歴史的貴族を廃して新たな貴族をつくり、自分が貴族になった。欧州のプリンス、デューク、カウント、バイカウント、バローンを古代支那大陸の封建時代、周王に封じられた公爵、候爵、伯爵、子爵、男爵を当てはめた。自分達が入り込める形にしたと言わざるを得ない。伊藤博文は公爵、大久保利通も侯爵だ。下級武士から貴族トップだ。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
<薩長は自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした>
薩長武力革命政府は、自分達が貴族になるだけではなく、自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした。例示すると日清日露戦争で功績を上げた薩摩出身の陸軍大将大迫尚敏・尚道兄弟を子爵・男爵に列した。軍人は戦争をすれば出世するという枠組みをつくり、戦争が必要とされた。これが大東亜戦争に突入した真の理由だ。後の世に提唱されたシュンペーターの理論通りだ。

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頼朝軍事政権の末路

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
<大日本帝国陸海軍>
徳川幕府が江戸に開いた軍事政権を薩長が倒して自分たちの軍事政権を樹立した。大日本帝国陸海軍は、薩長軍事政権の拠り所だった。この軍事政権が大東亜戦争をまねいた。この敗戦によって薩長軍事政権が明治武力革命以来70有余年でやっと崩壊し、民政がやっと実現した。その代償は大きく、幕府が守った北方領土/竹島を実効支配され、沖縄/小笠原すら一時失った。

次のブログにつづく。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-2)

前ブログからつづく。

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幕末外交談を書き終わった際の気持ち。

田邉太一はつぶやく。
<幕末全体を回顧して繰り返し繰り返し慨嘆する>

徳川幕府がやってきたことを素直に見ると、尊皇攘夷をめざして果たせずに、最初から最後まで無駄に時間を費やした歴史にすぎない。私は断固として言う。主張して曰く「徳川幕府には外交政策がなかった。外交なんてものはなかった。単に朝廷の御意向をその場しのぎで尊重し奉って攘夷を約束し、結果としてその約束が達成できなかった不毛の軌跡だった」と。
次のブログにつづく。

田邉太一はつぶやく。
<ストレス解消>
「幕府に外交のことなし。ただ朝意を奉じ、鎖国攘夷を図って遂げざる跡のみ」。これを言って長年もやもやしていたものが、一気に吹き飛んだ。もう何時でも、阿弥陀如来様の御下に参上してもよい。阿弥陀さまも「よくやってきた」と頭を撫でてくださるだろう。42歳で惜しまれて死んだ兄孫次郎に代わって次男の私が田辺家を再興したことを父石庵にほめてもらおう。

田邉太一はつぶやく。
<幕府外交はよくやった>
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

田邉太一はつぶやく。
<幕府外交はよくやった>
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

次のブログにつづく。

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田辺太一蓮舟のつぶやき 翁の著書:幕末外交談から(4-1)

私田邉康雄は、NPO法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月(2001年)に、第二回は10月に、そして第三回目~第四回目を12月7日に投稿しました。以下、第四回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。

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前回は幕末外交談の「擱筆のことば」を紹介しました。これは"あとがき"とは明記されていませんが、それに相当する部分です。ここで太一は鬱憤晴らしをやりました。今回は、この鬱憤を、太一の屋敷跡に住む太一の子孫が、太一から直接聞いた気分になって更に拡大して紹介します。

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阿部正弘の無策をくどくどと嘆く。

田邉太一はつぶやく。
<江戸城金庫が空>
阿部正弘がやるべきことは以下のようなものであった。従來の長崎に加えて横浜、神戸、函館など幕府直轄地に限定し、かつ、外人の行動範囲を制限して開国する。その際、清に使節をだして上海の租界を大いに学び、わが国に不利な事態が発生しないように事前に防備策を立てる。貿易を管理貿易とし、外国品に関税を掛けて幕府の収入として江戸城金庫を富ます。

田邉太一は更につぶやく。
<諸藩に相談する必要はなかった>
阿部のこと続く。関税で金を稼ぐだけでなく、幕府自ら、あるいは自らの息のかかった商人を使って貿易をする。稼いだ金でフランス、イギリスから軍艦と銃砲を購入する。これにより幕府陸海軍を強化する。この路線を推進できる小栗忠順を重用する。このことは幕閣内部だけで図り、諸藩には相談しない。決定事項を従來通り天皇に上奏する。これで良かった。

田邉太一はつぶやく。
<幕府の米本位制財政のつけ>
幕府は鎖国して米本位経済を推進した。米の生産者を支配するために、兵農分離政策をとった。兵(武士)は都市で武術に励み、農は地方で農耕に励んだ。農を支配するために地方に郷士(庄屋)をおいた。一方、流通を担当する商人を支配する兵商分離政策をとらなかった。これが幕府を衰退させた。城下町に商を支配する"町士"を作ればよかった。商を支配できなかった。

次のブログにつづく。

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