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柳営会の記事一覧

徳川宗家と柳営会-20。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

柳営会に入会して最初の活動参加は「懇親会」でした。徳川宗家18代徳川恒孝様をお迎えして約50名の会員が東京神保町の学士会館に集合しました。その席で私は将軍家に「初お目見え」しました。お目見えとは、将軍の尊顔を正式に拝し奉り、かつ、お言葉を掛けていただくことを言います。そして将軍に正式にお言葉を掛けていただくことの身分のことを「お目見え以上」といいます。ほとんどの旗本は一生に一回だけ家督相続の際にお目見えを受けます。それがなんと、学士会館では18代将軍を親しく会話し、その上並んで写真に納まりました。御先祖様が聞いたら腰を抜かすでしょう。

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徳川宗家と柳営会-19。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

理事会満場一致で「資格あり」と承認したと柳営会入会審査御担当の立花友克理事より電話連絡を受けたのは、2012年7月21日(土)でした。追っかけて正式な承認通知を受領しました。これを祖父田邉(辺)朔郎の遺影の前に差し出して報告したところ、大変喜んでいる姿が彷彿としました。祖父は、明治・大正・昭和を旧幕臣として生きたので、幕臣子孫の会『葵会』の会員になっていました。残念ながら戦後消滅したのでこれに代わって柳営会に入会できたことを喜んでいると感じました。

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徳川宗家と柳営会-18。祖父田邉(辺)朔郎(京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者)は直参旗本だった。

「大政奉還時の当主が徳川将軍家の録を食んでいたか?」との質問には困りました。そこで『田邉(辺)朔郎博士60年史』に書いてある「祖先の遺徳により幕府から糊口を凌ぐ程度の録をいただいていた」との記載文に加えて1866(慶応2)年に撮影された5歳の田邉朔郎が刀を差して立派な武士の服装で映っている写真を示しました。もしも浪人していたならば、このような写真を撮影してもらえる筈はないとの論理です。これによって御納得をいただきました。

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徳川宗家と柳営会-17。祖父田邉(辺)朔郎(琵琶(びわ)湖疏水の建設者)は直参旗本だった。

柳営会の入会資格審査担当者様から「1867(慶応3)年10月の徳川慶喜による大政奉還の際に、徳川将軍家から家禄をもらっていたことを証明してほしい」と言われた時には困惑しました。大政奉還時の当主である7代目の祖父『田邉朔郎』は、1862(文久2)年に父親の6代『田邉藤原孫次郎勿堂』を失っていたのです。2才の幼児が家督を相続していたかどうか、それを証明する書類はありません。江戸開城の際の戦火で屋敷が全焼した故。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶(びわ)湖疏水の祖父田邉(辺)朔郎-16

関東大震災による浅草地区の大火災によって過去帳は焼失したものの、1663(寛文3)年生まれで1748(寛延1)年に歿した初代『田邉次郎大夫藤原菊忠』、2代『田邉藤原丘忠』、3代『田邉藤原次郎大夫経忠貞斎』、4代『田邉藤原克忠』、5代『田邉藤原新次郎誨輔石庵』、6代『田邉藤原孫次郎勿堂』の墓碑が残っており、かつ、田辺家側に私田邉康雄までの系図が存在するので、それによって証明ができました。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶(びわ)湖疏水の祖父田邉(辺)朔郎-15

2012年6月19日に東京本願寺(旧名浅草本願寺)ひばりが丘別院の田辺家累代の墓地(1-ハ―5)に柳営会理事審査担当立花友克様、理事副会長荻原昌幸様、理事事務局長鳥居京二様の御三人を御案内しました。東京本願寺総務部長城正弘様が証明に立ち会ってくださいました。その席上で寺に過去帳の開示を求めました。しかし残念なことに過去帳は、関東大震災の火災によって焼失しそうです。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶(びわ)湖疏水の祖父田邉(辺)朔郎-12 

柳営会入会申請に当たって提出した申請書に添付した資料は、①家系図(拙著「琵琶(びわ)湖疏水にまつわる、ある一族のはなし」p-131)、②沼津市明治資料館通信記載の田辺家系図、③田邉(辺)朔郎博士60年史の「博士の家系及び一族」、④菩提寺東京本願寺にある9代前の祖先以来の墓地写真、⑤人名事典の写し3代前(田邉(辺)朔郎、朔郎の叔父田邉(辺)太一蓮舟、5代前田邉(辺)石庵

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶(びわ)湖疏水の祖父田邉(辺)朔郎-10 

柳営会入会審査申込に当たって提出を求められる証拠資料は、徳川幕府に仕えた最初の当主から申請本人までの繋がりと資格を証明できる、徳川幕府が発行した公的資料の関係部分、家に伝わる文書、戸籍等次のような書類等の写し。a)家に伝わる系譜・先祖書・由緒書・幕臣を証明する資料等、b)寛政重修譜家譜等徳川幕府の公的資料の写し等となっており、これらで不十分は場合は、①菩提寺の過去帳の写し等、②知行取りの場合は関係文書等となっています。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本、琵琶湖疏水の祖父田邉(辺)朔郎-9

柳営会会員が徳川宗家の日光東照宮御参拝の御供をした集合写真を昨日載せましたがお楽しみ頂けたでしょうか。「柳営会」をインターネットで検索してください。柳営会のホームページが露出します。会員資格は、「徳川将軍家譜代の大名、旗本並びに御家人(大概順「お目見え以下」記載の者など徳川幕府から禄を頂いていた者)等の幕臣の子孫を原則として会員資格者とする。なお、明治以後分家した子孫も含めるものとする」となっています。これを見て、「祖父田邉朔郎が、戦後消滅した幕臣(直参旗本等)の会『葵会』に戦前入会していた」ことを思い出し、今回柳営会入会に挑戦することにしました。なお、葵会は戦後消滅したそうです。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶湖疏水の祖父田邉朔郎-8 

柳営会は、徳川将軍家譜代の大名・旗本・御家人の子孫からなる会です。インターネットでたまたまサイト『会員募集・柳営会』を見つけて去る2012(平成24)年5月10日に資格審査申請書を提出しました。その結果、2013年7月24日に正式に会員として登録されました。
私は源平時代の熊野神社別当藤原湛増(田辺に居住していたので田邉湛増と呼ばれた)から第29代目の子孫ですが、今回22代目の田邉丘忠から第27代目朔郎までが直参旗本であったことが柳営会によって確認されました。私から遡って9代目の第21代目田辺菊忠から26代目曽祖父田辺孫次郎まで6世代の墓が東京本願寺(俗称浅草東本願寺)に現存しており、この過去帳等が調査の対象でした。会の応募基準には、「厳しい審査」を謳っていますが、まことに厳しい審査でした。

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徳川宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶湖疏水の祖父田邉朔郎-7 

我が田辺家の祖紀伊田辺の田辺湛増は源平合戦の際、義経に味方して壇ノ浦の勝利を導いた話はよく知られています。その手柄によって頼朝から関東に大きな所領を与えられたのですが、子の湛快は「承久の変」において後鳥羽上皇側に加勢して破れ、丹後田辺に逃れたものでした。その後、鎌倉、南北朝、室町、戦国、徳川、明治大正、昭和平成時代を我が田辺家は、今日まで800余年間をなんとか生き延びてきました。私は湛増から29代目です。なお「柳営会」とは、徳川将軍家譜代の大名・旗本・御家人子孫の会です。そして柳営とは「幕閣」を意味します。もう30年も以前に、徳川宗家18代当主徳川恒孝様のお許しを得て冠名させていただいたそうです。

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徳川将軍宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶湖疏水の祖父田邉朔郎-6 

我が田辺家は、徳川家において武田遺臣として扱われていたと書きましたが、甲斐武田家においては越前朝倉家の遺臣として扱われていました。そして朝倉の前は、丹後田辺でした。その前は、紀伊田辺に居ました。源平時代の熊野神社の別当、藤原湛増が田辺家の祖先です。湛増は田辺に住んでいたので田辺湛増と呼ばれていました。なお、ここで言う「柳営」とは、徳川幕府の幕閣のことです。もう30年も以前に会の発足に当たり、徳川将軍家宗家18代徳川恒孝様(現在の御宗家)のお許しを得て譜代直参旗本子孫の会に冠名させていただいたそうです。

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徳川将軍宗家と柳営会。直参旗本だった琵琶湖疏水の祖父田邉朔郎-5

徳川将軍家は、今川遺臣、北条遺臣、織田遺臣を多く採用し、三河譜代の家臣団を強化したことが、260年の長期間平和時代の基礎であったと言われます。確かに信長や、秀吉には結束した家臣団はいなかったようです。信長などは、有力家臣、明智光秀に殺害されました。秀吉は、長浜以来の子飼いの家臣(加藤清正、福島正則など)だけが頼りだったようです。

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