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柳営会とは(5)

「柳営会とは」に関して、柳営会ホームページから柳営会の説明文をそのまま引用して前回までの柳営会(1)から柳営会(4)までに紹介しました。

 お分かりいただけたと思いますが、柳営会とは、一言で表現すると幕臣子孫の会です。幕臣とは、徳川「幕府」における徳川将軍家の「臣下」を意味します。しかし幕臣であればどんな幕臣でもよいかというと、そうではありません。ここに「譜代」という制限が加えられます。譜代とは、「家康公以来の代々」を意味します。

これをお読みになって柳営会会員資格があると思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。

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柳営会とは(4)

「柳営会とは」に関して、柳営会ホームページからの引用がつづきます。

当会では、次のような事項につき話し合いにより運営がなされている。
1.徳川将軍家および各家の先祖の顕彰とその業績の研究、
2.江戸時代の正しい認識と系譜・資料・記録などの収集保存、
3.德川御宗家を中心とした会員相互の親睦および研修旅行、
4.会の記録と広報(月報「柳営会たより」、会誌「柳営」の発行)、
5.その他会設立の精神に沿う活動 、年間行事および具体的活動、
6.東照宮へ德川御宗家のお供、会の最重要行事として、当会発足の契機となった日光東照宮、例大祭の5月17日には御宗家のお供をし、昇殿参拝をしている。また、東照公の御命日4月17日には、久能山東照宮にも同様なお供をしている。

以上で「柳営会ホームページからの引用を終わります。これをお読みになって柳営会会員資格があると思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。

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柳営会とは(3)

「柳営会とは」に関して、柳営会ホームページからの引用がつづきます。

会の活動方針江戸幕府で活躍した先祖の業績を誇りに思う子孫が、德川御宗家を中心に結集し、正しい目で江戸時代を見直し、先祖を偲び、その精神を引き継ぎたいという目的で集まった、要するに精神的つながりを大切にする素朴な会であるので、会員は旧幕時における家格には関係なく平等の立場におかれている。

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柳営会とは(2)

「柳営会とは」に関して、柳営会ホームページからの引用がつづきます。

「柳営」とは、名将軍の陣営を呼称する中国の故事に由来し、江戸時代には「幕府及び将軍」を意味する固有名詞となったことから、当会にふさわしい名称として採用された。

以下「柳営会とは(3)」へ続きます。これをお読みになって柳営会会員資格があると思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。

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柳営会とは(1)

「徳川宗家と柳営会」を29回私のホームページに連載しました。ここで柳営会とはどんな会であるかを説明しましょう。説明のために、柳営会ホームページをそのまま引用します。以下の通りです。

日光東照宮例大祭には、毎年、第18代德川御宗家・恒孝様が祭主としてご参拝になっておられます。ある時、参列者の中から、旧幕臣の子孫のお供がいないのは寂しいという声があり、昭和55(1980)年5月16日、日光東照宮研修会館に有志が集い、会結成を話し合った。
そして、例大祭当日の17日早朝、輪王寺本坊玄関前で有志が始めて御宗家ご夫妻にご挨拶申し上げ、前夜決定した会の名称「柳営会」のご承認をいただき、会が発足した。

以下「柳営会とは(2)」へ続きます。これをお読みになって柳営会会員資格があると思い、かつ、入会したいと思う方は私田邉康雄に御連絡ください。

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徳川宗家と柳営会-29。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

大番は攻撃を主目的とした(屋外)野戦部隊であったので、この伝統の上に立って江戸城においても屋外勤務でした。今大手門を入って二の丸庭園に上がる手前に大番同心小屋が残っています。入交代番ですからこれらを五番方といったそうです。いまでも昼夜連続で操業する工場等においては操業担当労働者のことを番方といいます。また千代田区に番町という地名があります。「番町皿屋敷」の番町です。現在は一番町から六番町まであります。

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徳川宗家と柳営会-28。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本。

徳川将軍の親衛隊、即ち、「旗本」は、編成された順に大番、書院番、小姓組番、新番、小十人組と五番方あります。昼夜交代一日24時江戸城内外を警護していました。大番は、関ヶ原の戦いの際に編成された将軍直属の攻撃部隊です。元来が攻撃目的ですから、伝統的に屋外勤務でした。

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徳川宗家と柳営会-27。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

関ヶ原合戦で勝利を得た後に大阪冬夏の陣によって豊臣家を滅ぼした徳川将軍家は、もちろん、「軍事政権」でした。しかし約100年も戦争の無い時代を経て「武」よりも「文」が重んぜられるようになりました。即ち、武士の官僚化でした。武芸よりは「読み」「書き」「そろばん」の力が出世の道となりました。

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徳川宗家と柳営会-26。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。 

将軍公務の場において将軍遠くから垣間見ることがしばしばであっても、それを「お目見え」とは言わないそうです。平社員が、社長の姿を廊下やエレベーターで見ることは、お目見えではないのです。なお、富士見宝蔵は、江戸城内で謁見儀式等に用いる御物を収納する場所であり、富士見宝蔵番は、御物を儀式の都度取り出して会場へ陳列する役目をも持っていたと聞きます。

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徳川宗家と柳営会-25。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

「書院」は将軍の公務の場ですから、書院番は、将軍の御尊顔を垣間見ることが日常茶飯事だったようです。それだけに出世のチャンスが多かったと聞きます。将軍に対して距離的に近い位置に勤務していた役として「小姓組」という番方もありますが、これも出世チャンスがあったそうです。書院番と小姓組を合わせて「両番」と言い、これに就くことにできる家禄を持っている家を「両番筋の家」と言ったそうです。

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徳川宗家と柳営会-24。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

富士見宝蔵には、徳川家の家康公の遺品や諸大名からの献上品など御物が収納されていました。富士見宝蔵番は、この御物を管理するお役であり、年初などに将軍が諸大名対して行う謁見などの公式行事の際には御物を持ち出して、謁見の場である「黒書院」や「白書院」に並べることも役目の内に含まれていたと聞きます。

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徳川宗家と柳営会-23。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本。

我が田辺家は代々、大番、書院番、富士見宝蔵番などをつとめていました。「大番」は、「関ヶ原合戦」の際に創設された組織だそうです。これは野戦における将軍直属の攻撃部隊でした。後になって将軍近辺を守備する書院番ができました。さらに時代が下って平和な時代となると、江戸城内に勤務する「書院番」の地位が向上しました。そして相対的に、江戸場外で仕事をする「大番」の地位が低くなったそうです。

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徳川宗家と柳営会-22。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本。

田辺家の先祖が将軍にお目見えできた機会は、各祖先ともに一生に一度だけでした。家督相続する際に、その年次の大勢の家督相続該当者と共に平伏したまま将軍の御声を聴くだけだったのです。大企業の新入社員が、入社式において社長を遠くから拝顔し、そして正社員になるような感じです。江戸幕府を今でいう中央官庁に例えるとよく分かります。旗本は、キャリア組だったのです。そして現在と異なる点は、「世襲制」でした。

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徳川宗家と柳営会-21。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本。

テレビ「暴れん坊将軍」で「松平健」将軍が大岡越前守にしばしば会っていますが、将軍に会うことのできる旗本等を「お目見え以上」といいます。旗本・御家人とよくいいますが、お目見え以上の身分の者を旗本というそうです。しかしお目見えといっても、常時将軍に会えるものではありません。幕政に携わる者のみが将軍に常時会えるのです。大企業において役員以上が、常時社長に会うことができることと同じです。

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徳川宗家と柳営会-20。京都琵琶(びわ)湖疏水の建設者、祖父田邉(辺)朔郎は直参旗本だった。

柳営会に入会して最初の活動参加は「懇親会」でした。徳川宗家18代徳川恒孝様をお迎えして約50名の会員が東京神保町の学士会館に集合しました。その席で私は将軍家に「初お目見え」しました。お目見えとは、将軍の尊顔を正式に拝し奉り、かつ、お言葉を掛けていただくことを言います。そして将軍に正式にお言葉を掛けていただくことの身分のことを「お目見え以上」といいます。ほとんどの旗本は一生に一回だけ家督相続の際にお目見えを受けます。それがなんと、学士会館では18代将軍を親しく会話し、その上並んで写真に納まりました。御先祖様が聞いたら腰を抜かすでしょう。

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